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随筆(2020/12/11):人間関係を続けるために必要なことのいろいろ(中:誠実と信頼)

2.誠実と信頼

2.1.「言行一致」の誠実

「同意や合意は出来るが信頼(か下手するとその前段階の誠実)が出来ないので、取引なり約束なりの面倒な高いところに手が届かない」

し、

「手が届かないことに不満があるので、あのぶどうは酸っぱい、と言っているパターン」

の人、います。


そういう人達は、

「何かをやりとりする取引や、何かをする約束は、望んでいないし、望ましくすらない。同意や合意こそが大事なのであって、取引や約束は卑しい」

という趣旨のことを、しばしば要するに言うのですね。


同意や合意の大切さはその通りだとしても、

「そういう麗しい綺麗事や約束事を言ってはいるが、それとは別に、

『こいつは言行一致するやつだ。約束は守る。信じてみようじゃないか』

と信頼されるだけの営為を、重ねて来たか」

という話からは、別に逃げられる訳ではないんですね。


そういうことをしてないのなら、それはもう信じてもらうのは、博打の世界になる。

信じてもらえる確率、低くて当たり前。

そういう世界に、あえているならともかく、何も考えずにいるの、まあ危険だし、自分の信頼も低いままでしょう。


博打はともかく、投資にはしばしば担保が要る。

金の投資に限らないのなら、信頼の投資は、言行一致によって得られることがふつうだ。

やらないという話は、単純に消極的な自殺行為でしかない。

じゃあ、それをするのが、基本的な姿勢になる。

2.2.「ああは言ったが、あれはナシになりました」という、言行不一致な人との同意や合意、明日にゃゴミだよ。ルージング・マイ・フューチャー

さっき、

「同意や合意は出来るが、信頼か誠実が出来るとは限らない」

という話をしました。


というか、言行一致の誠実「に限る」と、これはそもそも同意や合意「以前」の話になる。

言行不一致の人であることが分かっていて、心から同意や合意が出来るか? ふつうは無理な話でしょう。


何も考えずに、あるいは目をつぶって、インスタントに同意や合意をすることは一応可能だ。

が、それが明日

「ああは言ったが、あれはナシになりました」

となるようであれば、次の同意や合意は、こちらとしては非常な警戒をもって行うことになる。

次の次? 俺だったらそもそも話を耳に入れたくすらねえ。

2.3.自由意志の名において、通じないような話をする人、コミュニケーションの世界では、お話にならない

どうもこの話がどうしても理解できない人もたくさんいるのですが、あえてします。

誰かの「自分の思い通りにする」ことは、他人の「自分の思い通りにする」と衝突した場合、どんどん純度を落としていく性質のものです。

これは、他人がいる限り、「純度が落ちて当たり前」のものです。


コミュニケーション以上のテーブルに、他人は、当然、いる。

じゃあ、自由意志の純度は、どうしたって下がる。

自分の思い通りにならないことは、たくさんある。

妥協、大いにあり得る。


ここで「そんなん嫌だ」という人が、他人以上のテーブルに置いてある美食や美酒を持っていくの、ふつうは無理な話ですよ。

コミュニケーションのテーブルの上にあるものが、コミュニケーションのテーブルについていないのに、得られる訳がない。

(福祉国家とか(たいていその維持にはべらぼうな手間とコストがかかる)のテーブルから、誰かが料理を切り分けて分け与えてくれる話は、今回は省略します。

それに、これがコミュニケーションにおいて、ふつうそれほど大きな役割を果たしていないのは明らかだ。

たいていコミュニケーションは私的な関係のことになる。じゃあ、公に出来ることはあまりない)


言うまでもありませんが、同意や合意のプロセスは、自由意志に基づくものですが、コミュニケーションの上でのことです。

自由意志の純度は、当然落ちます。

もちろん自由意志とはしばしば自分の中でのみ完結するデタラメなものであり、それでいいのです。

だが、外でもデタラメなままだったら、他人がそれに乗れる道理がない。

他人に可能な同意や合意のためには、言ってることややってることが、ちゃんと他人に通じる類いの理屈に合ってなければならない。


そういう、意思表示自体が疑わしい人とのコミュニケーションによって成る、同意や合意が、フルで通ることはない。

しばしばそれらは、要件すら欠くため、何ら同意や合意ではない。

というのが、我々の社会の「骨」、刑法や民法の話になります。


合意や同意がやりたい気持ちが本当なら、まずは合意も同意も可能な話をするべきで、不可能なデタラメばかりでは話にならない。

せめて、そういうところだけでも、気を付けないといけないのです。

2.4.もう一つの、「正直」の誠実

誠実ということは、自分に限って言えば、言行一致によってもたらされる。能力と意志に基づいた誠実だ。


でもこれは種火でしかなく、人間関係に寄与する誠実ということも、また別の回路としてある。

これは簡単で、「正直であるかどうか」ということだ。


こちらは、「言行一致」の誠実とは違う。

「言行一致」の誠実は、相手の顔を意識しないで、イマジナリー自分や鏡や不特定多数を前に喋っていても成り立つ。

「正直である、嘘をつかない」ということは、相手が必ずいる話です。

(自信のなさや恐怖からの逃避に基づく、「自己欺瞞」をするかしないか、というレベルの誠実さの話も一応あるにはあります。

が、ここの話は今回はあまり関係ないのですっ飛ばします)


自分は相手を、情報の秘匿、隠し事をもって、都合良く誤誘導して不利益をもたらしてはいないだろうか。相手に信頼されるに足るムーブをしているだろうか。それを具体的に列挙出来るだろうか。

この辺りをちゃんと、心の底からも、口でも、ウソ偽りなく答えられるだろうか。これは実はかなり難しいところだと思いますよ。

(答えられる人は素晴らしいが、それは決して当たり前のことではないことは、実は頭の片隅にでも置いておいて欲しいのです)

2.5.「言行一致」の誠実と、「正直」の誠実が、人間関係を信頼に導く

自分に対する言行一致の誠実さと、相手に対する正直の誠実さは、両方あることで人間関係を信頼に導く。

言行一致していないやつが正直であっても、預けた金がしょっちゅう溶けるのなら、そういうことを正直に白状してくれたとしても、まあ「こいつ…」とはなっちゃいますよ。

逆に、言行一致していても嘘つきなら、そいつは端的に「能力と意志のある、有言実行タイプの、しかし人を裏切ることに躊躇のない、恐るべき脅威」だ。

信頼? 相手は肉食獣ムーブをしていて、人間関係を狩場と見ているし、俺らを全般的に餌だと思っているのにか?

それでいて、そいつら、しばしば
「俺は信頼されて当たり前。
信頼されないのはあいつらがあほだからだ」
という顔をしておられるんですよね。勘弁してくれよな…

2.6.約束や取引を「卑しい」と思う人たち

さっきもちょろっと書きましたが、繰り返します。


誠実や信頼に基づく、何かをやりとりする取引や、何かをする約束を、

「要するに、同意や合意を餌にして、相手方の意に反して、相手方に何かをさせる、そういう権力ムーブ」

であり、

「卑しい」

と思っている人、いる。


それは個人の価値観だから、私はとやかく言いたくない。

(同意や合意に基づく取引や約束を、
「要するに、同意や合意を餌にして、相手方の意に反して云々」
という人の同意や合意、何一つ信頼ならないが…)


だが、じゃあ、その手の営為から発生するメリットを、欲しい時に自力で手に入れるのは、当然諦めるしかなくなる。


まして、

「なぜその手のメリットが得られないのか? 不公平である。非難に値する。謝罪の上、賠償をもって払え」

という話、端的に成り立たないから、やめた方が良いですよ。それは、出来ない相談だ。


それに、ものすごく心証が悪くなりますので。私の目にも「盗人猛々しく」見えるくらいには。

重ねて申し上げますが、やめた方がいいですよ。マジで。


(次回、コミュニケーションのテーブルのレベルの円滑さに関するシグナル、挨拶の話をします。

また、取引等のテーブルのレベルの円滑さに関するシグナル、贈物の話もします。乞うご期待)

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