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音楽で伝わる心とわたしの居場所

言葉にできない焦燥感、行き場のない無力感。
彷徨うように歩きまわってもみつからない。

私の居場所ってどこにあるんだろう。
ずっとそんなことを考えて生きてきた。

ここではないどこかをみつけるように
いろんなものに触れ、いろんな人に会った。

元に戻ってきて、いつもそこにいたのは
草臥れ、混乱したわたしだった。

ここだと腹を据えても、うまくいかなくて、
周囲の反応と自分の感じている感覚に齟齬があるような。

一体どこへいけばよいのだろう
求めていたものってなんだったのだろう

いろいろあって、本音は言わないでおこう。
そうずっと心がかたくなっていた。

かたく、やがて温度を感じなくなって
もうどうしたらいいのかがまったくわからないという時、
不思議といつも心をほぐしてくれるものや人に出会う。

音楽、本、言葉、ネットの世界にいる人々。
人に限っては生活圏内にいると出会えない人たちであった。

いちばんはじめに仲良くなったのは年上の男の人だった。
なんでも話せるお兄ちゃんのような。

学校から帰って、宿題を終わらす。
それからはネットでその人と話すことが楽しみだった。

いつも決まった時間に決まった場所にいて、
今日あったこと、食べたもの、聴いている音楽。 
これまで生きてきたその人の記憶。
ささいな日常から人生体験まで
いろんなことを共有した。

わたしの知らない世界をたくさん知っているようで、学校という世界しかしらない私にとって、その人と話すことは世界は学校だけではないのだと教えてくれた人でもあった。

実際に会いにも行った。
はじめていく街、はじめて乗る電車。
目に映るものすべてが新鮮で、
なにもかもキラキラしてみえた。 

なんて自由なんだろうと思った。

受験の時は応援メッセージを送ってくれたり、
合格した時はお祝いもしてくれた。

今好きなものの基盤を知るきっかけを与えてくれた人であった。交流がなくなった時期もあったけれど、気がつくと、出会ってから7年の歳月が過ぎようとしていた。7年もの間、いろんなことが変化して、会わなくなっていった。それでもあの7年間は私にとって楽しいという記憶しか残っていなかった。年齢も離れていたのに、とても不思議な関係だった。

音楽を教えてくれた。

すぐに聴いて、すぐハマって、またそれを共有し合った。
いっしょに星野源のライブにも行った。



たしか2012年で、アルバム、エピソードのツアーだったように思う。当時はライブハウスで、幸運にも最前ど真ん中という、神的ポジションで聴くことができた。

フリートークの時、源ちゃんが観客になにか質問をしたのだが、いっしょに行っていた人が大きな声でそれに答えていた。その答えが間違っていて、だれかがそれを訂正するような声が後ろから聞こえて、源ちゃんがいっしょに行っていた人の方を見て、ツッコんでいた。それにニコニコ笑っていたら、源ちゃんがこっちを見て、なっ!と笑ってくれた記憶がある。


源ちゃんはほんと何度聴いただろう。2011年当時、まわりに聴いている人はネットの友達しかいなくて、学校にはいない。ただずっとアルバムをウォークマンにいれて繰り返し聴いていた。

たぶん歌詞の意味を深く理解していたわけではなかった。でも聴いている間は癒されたり、励まされたり、ただ隣にそっといるような、身体に入ってくる感覚がその時々で違った。

言葉にできないなにかが、星野源という人間がつくる音楽を通してわたしにそっと入ってくる、その感覚が好きでずっと聴いていた。

当時の行き場のない感情は、私にとって、彼のつくった音楽を聴くことで癒されていたのだろう。

彼の作る音楽だけでなく、やがて話していること、語ることにも耳を傾けるようになっていた。いつしか星野源という人間を好きになっていた。

生死を彷徨い、そこから化物のように復活を遂げた時も、ドラマで主演を果たした時も、女優さんと結婚が決まった時も、自分のことのようにうれしかった。

作る音楽が時が経つにつれて印象が変わってきて、自分とは違う、新しいステージにいるのだろうと思いながら、その時々で聴いていた。昔ほど聴かなくなってしまったなとぼんやり考えていたとき、新しいものを聴いた。


何気なく耳にしたつもりだった。でも一気に昔のあの感覚が甦ってきた。昔よりいろんなことを経験をしたからだろうか、歌詞が心のど真ん中を突いてくる。結構むき出しだ。なのに歌声やメロディーが合わさって、やさしく包まれているような感覚になる。

本音とあきらめ、その両方を経験し、だからこそできること、こうしていくという力強いもの。夢ではない。すべてがリアルだけれど、なぜか絶望を感じない。むしろ展望は明るいように思われる。こうして言語化してみると、自分で感じている感覚など、文字にすることはとてもむずかしいことだと考えさせられる。

音楽はこうした言語化しにくい、自分の中に渦巻く繊細な、ともするとすぐに消えそうなものを表現してくれているのだろうかと思う。違うのかもしれないけれど、でもそう感じる。

なにを語るかとかは、大して重要ではないように思えてくる。言葉に励まされることはもちろんある。でもなんというか、本当に人が感じとっているものは、その言葉の奥にある、言葉を発している人の心なのではないかと思う。

言葉はそれらを表現する手段にしか過ぎなくて。人が無意識のうちにキャッチしているのは、なにが語られているのかではなく、目に見えない。でも本当は人間のだれもが求め、恋焦がれ、手を伸ばしては消え入りそうな、あの心なのではないかと思ってしまう。

コミニュケーションをとるときもきっと、なにを語るかではなく、言葉を通して受け取る心、寄り添い、触れたいという相手の心を感じとっているのではないだろうか。

音楽は、歌詞という言葉、生きている人間の声、より繊細なものを表現するメロディー、それに付随する楽器。それらが合わさって、聴いている人に感動や驚きを与えているのだろう。

ネットで出会って仲良くしてくれていたあの人も、その人と出会って知ることができた源ちゃんも、記憶の中でこうして今も残り続けている。

あの時、私はたしかに彼らの存在がお守りになっていた。
その記憶が今でもわたしに元気をくれたりする。

みんないろんな変化があって、時が流れていく。
過去のおまもりをこうして思い出して、
またいつでも源ちゃんを聴くと甦る、
大切にしていきたいわたしの記憶。 

ここにいていいんだよと伝えてくれているような、
やさしく手招きされているような、
やさしい音楽を今日もこうして聴き続ける。


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