不知火黄泉彦「武器ではなく、楽器を」
ライフルの音が響いた。
タカタカタン。タカタカ、タカタカ、タカタカタン。
五連符と十三連符だからファイヴストロークとサーティーンストローク、いや、遅めのアレグロだからシングルストロークのほうがクリアに鳴らせる、と反射的に考えてしまった自分が自分で嫌になる。
見ると、迷彩服姿の人々が重なって倒れている。二〇人まではいないだろうか。微塵も動かない。ゴムのようだ。アスファルトに散った血痕のシルエットのほうが、よほど生命感がある。
「またかよ」つまらなさそうに弟が言うと、
「まただねえ」立ちあがった母も言う。
ヒジャブ姿の女性が泣き叫ぶと、弟が真似をして笑った。一言言おうとしたけれど、のんきに銃声をカウントしていた自分も似たようなものだと気づいて、やめた。
キッチンから戻った母が、テレビのボリュームを絞る。
血も、路面も、なにもかも、黄土色の砂埃にまみれた映像がぐらぐらと揺れて、真横に傾いた瞬間にさっと暗くなり、無音の画面が明るく清潔そうなスタジオに替わると、女子大生みたいなアナウンサーが金魚のように口をパクパクしはじめた。
「消しゃあいいのに」と弟。
「時計がわりだから」
「電気無駄じゃね」
「そう思うんなら夜更かしないでさっさと寝なさい。昨日なんか廊下もリビングも点けっぱなしで寝て。あと自分で起きてくれないと」
「ごちそうさま。もう行く」私は席を立ち、食器をシンクに運ぶ。
「あら、早いのね」
「ちょっと、朝練」適当に誤魔化すと、
「大会まだまだ先じゃない」母がカレンダーを見た。
「だから。個人練習」
「いつまで」
「別に決めてない」
「なにそれ適当ね」と言うので「じゃあ千花ちゃんは」の質問に、
「もう来ない」まともに答えてしまって、
「えっ」母が絶句した。
「もう朝は一緒に行かないから呼びになんか来ない」と断言しかけて「と思う。わかんないけど」と大声で言い足した。
余計なことを言った、と悔やみながらリュックを背負って廊下を抜け、玄関のスニーカーに足を突っ込むと、質問しながら追いかけてきた母が、ずっと無言の私に、
「踵」と冷たく言った。
「千花ちゃんも生徒会とか忙しいから」振り返らずにそれだけ返す。
外に出て、背中に回した手でドアを突き飛ばすと背後で閉まる音がして、なにかを叫んだ母の声が途切れた。
その勢いのまま、よたよたと小走りを続け、自宅が見えなくなってから片足跳びのようにしながら中途半端に履いていたスニーカーを手で直そうとしたけどうまくいかず、諦めて立ち止まり、靴紐から解いて履き直した。
(中略)
七月の朝の空気に、沈黙がさらさらと滲んでゆく。
背中に一筋の汗が流れ、けれど肩には鳥肌が立った。
暖かいのか涼しいのか、よくわからない。
タタン。
青木君の傘が、地面に転がって音を立てた。
拾いながら、綺麗なフラムだ、と反射的に思う。
(中略)
ルーディメンツとは、スネアドラム、一般的には小太鼓といったほうがわかりやすいけれど、これのさまざまな奏法をまとめたものだ。
一番シンプルなのは〈シングルストロークロール〉で、単純に〝右左右左〟と連打するだけなのだが、立派な奏法のひとつで、事実、ムラなく長時間テンポと音量をキープし続けるのは至難の業だ。
ちなみに〈ロール〉とはザーッと音がつなげる高速連打のことで、表彰式とかで発表の直前によく鳴らされるあれがそれだ。母に言わせると、テレビの砂嵐らしい。
〈ダブルストローク〉は、叩いたスティックのリバウンドを中指から小指までの三本で握りこむようにしてそれで二発目を鳴らすテクニックで、慣れないうちは二発目が弱くなりやすいが、一回の手首や腕のスイングで二発を鳴らせるから、習得すれば〝右右左左右右左左〟とシングルよりも遥かに楽に高速で綺麗に長時間ロールできるようになる。
〝右左右右〟〝左右左左〟とシングルとダブルを交互に並べたのが〈パラディドル〉で、四音ごとに左右が入れ替わるのが特徴だ。ダブルの最中に反対の手を高く上げることができるからアクセントをつけやすい。
そう。音量とは、スティックの高さによってコントロールするものだ。力はむしろ完全に邪魔で、脱力するほど音量は大きくなる。腕全体の重量を利用できるからだ。流れる血液を含めた片腕一本の重さはボウリングのボールほどもあるから、頭上から落下させるだけで楽にフォルティシシモを出せる、と理屈でわかってはいる。
だから、なにも考えずに、高低差をつけた両手を同時に振り下ろすだけで自然と、低いほうの手が小さな音を立てた直後に高いほうの手が大きな音を鳴らす。このふたつの音は、ダダッ、とか、タタン、とひとかたまりの音に聞こえて、これを〈フラム〉という。
(中略)
クラシックで最も革命的な曲は〈ボレロ〉だ。
メロディーは二種類しかなく、最後の二小節以外はすべて同じリズムで、それがただ、冒頭から終末部までをかけて、じわじわとクレッシェンドする。そんな一見シンプルな曲なのに異様なほどスリリングで、その秘密は、フルート、クラリネットにはじまって、次々にリード楽器が交替してゆくカラフルな質感の変化にあるのだけど、実はこっそりと転調もしていて、そのあたり、アイディアの一発芸であるジョンケージの〈4分33秒〉なんか、比べ物にもならない。
最後には管楽器も弦楽器も総出となってオーケストラ全員で同じリズムを刻むのだけど、冒頭でこの唯一のフレーズを、しかもソロで提示する楽器こそがスネアなのだ。
だから余計に特別なのだ。
頭のなかで〈ボレロ〉を刻む。
英語教師の念仏のような説教と闘うにはこれしかない。
窓の外は真っ暗で、とうとう降ってきた、と思っているうちに強くなり、雨粒がガラスやサッシをパーカッションのように弾き、窓を揺らす風の低音はコントラバスで、そんな奇妙なオーケストラを困った顔の顧問が笑いながら指揮している、と想像をした。
一年前の彼女の言葉を思い出す。
「ピアノは鍵盤楽器ですが、鳴っているのは弦であり、鳴らすのはハンマーで、つまりピアノは弦楽器であり打楽器であり、あなたには既に打楽器経験があるわけです。たしかに山口さんのピアノは情熱的ですが、それゆえにテンポが揺れるきらいがあって、私があなたを評価しているのは、その徹底した自制的な安定感です。だから齋藤さんには打楽器奏者として、このバンドを土台から支えてほしいのです」
ピアノは万能な楽器だけど、ふたつできないことがあり、それはヴィブラートとトレモロで、打楽器も基本的にはヴィブラート、音程を揺らすことはできないけれど、トレモロ、同一音の高速連打は朝飯前で、だから千花にできないことで自分にできることもあるのだと、そのときにわかった。
そんなことを思い出しながら、英語教師の机にあるボブディランと立川談志のアルバムジャケットに目をやっていると、
「なんだ、君、フォークや落語がわかるのか」
見たこともない晴れやかな顔で身を乗りだしてくるから、思わず頭ひとつ、上半身を反らせてしまう。生乾きの布巾と脂と洗濯洗剤が混じったような臭いがするから右手の人差指の背で左の鼻孔を押さえつつ右下に顔を向けると、
「ふん。期待した私が愚かだったな」
英語教師は姿勢を戻し、いつもの仏頂面になった。
「フォークは偉大だ。ギターと自分の声だけで世界と戦うのであって、落語にいたっては己の肉声だけだ。マイクすら使わない。たかが電気、と言った坂本龍一が叩かれたのも道理で、あれは落語家に転身してから言うべきだったな」
英語教師が笑い、肥えた身体が揺れる。キャスターつきの椅子の背もたれが鳴るギシギシという金属音が急に静かになると、真顔で、
「そうか。吹奏楽部だったな。道理でわかるわけがない」と言うから、
「どういうことですか」と返してしまい、
「吹奏楽というものは何十人も集まってようやく体裁をなすわけで、落語やフォークとはまるで性質が」と言ったから、
「ボブディランもバンドだったし、落語家だってマイクを使うし、第一、ブラスバンドは生音です」と言ったら、真っ赤な顔で無言になった。
赤い顔が青くなり、白くなってから、
「そういう態度が成績や授業態度にも表れるんですよ」とさらに言うから、
「ミュージシャンのノーベル賞を喜ぶくせに落語家にグラミー賞がないのは疑問にすら思わないんですね」と支離滅裂な啖呵を切ってしまい、それでまた説教が長くなった。
(中略)
トーンズアンドアイの〈ダンスモンキー〉は、小学生のときのヒットソングだ。
〝私のために踊って〟
というサビのリフレインと、エフェクターをかけたような特徴的な響きの歌声が妙に耳に残るが、
〝キラキラしてる〟
〝握手して〟
〝スタイルが好き〟
〝見てると泣けてくる〟
そんな称賛を浴びて一心不乱に踊り続けるストリートダンサーについての歌詞はその言葉だけを拾えばポジティブなのに、サウンドは、暗く、冷たく、悲しく、すると途端にプレッシャーについて歌っているようにしか思えなくなるから、実によくできている。
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