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『人間失格』太宰治

はじめに:恥の多い生涯

恥の多い生涯を送って来ました。

この一文から始まる本著を読んだことのある人は多くいるだろう。ほとんどの読者の方が、優秀だった子供が、堕落した大人になるまでの鬱っぽい物語であるという理解をしていると思う。

間違いございません。

ただ、女史はあえて別の観点からこの物語を推察したい。女史は結果的に、堕落の何が悪いのか、分からなくなってしまったのである。

異郷から来た女史が何者か知りたい人はこれを読んでくれ。

そして、女史のnoteをどう読むか、こちらを参考にしてくれ。

世間とは:個人

幼少期時代から成績優秀で頭の良かった葉蔵は、相手が自分にどんなことを期待しているのかさえも知っていた。大人はきっと自分にこういって欲しいのだ、と相手の意をくみ取り、自分の本心ではなくても行動に移し、相手に気に入られる。この葉蔵の癖は、大人になっても続く。

この癖のせいで葉蔵は、相手のことばかり考え、自分の芯を持って、自分の意志で行動をするということをできないでいた。結果、堀木というクズ男と遊び歩くようになり、酒や女遊びまで覚えてしまう。ここから、葉蔵の堕落が一気に加速していく。

年月が経ち、堕落しきった葉蔵の元に堀木が来る。堀木は、いかにも自分はまともな人間になったと言わんばかりに、偉そうに葉蔵の生活を評価する。葉蔵の生活を見たら世間がなんと言うか。世間はきっと君を笑う。君は世間の困り者だぞ...。繰り返される「世間」という言葉に、葉蔵は、その言葉の裏に隠された真理に気づく。

世間というのは、君じゃないか

人が気にしてばかりいる世間とは、一体どの人々のことを言うのか。葉蔵は、世間とは所詮個人であるということに気づいたのだ。堕落した葉蔵を見て愚痴を言うのは堀木であり、笑うのも堀木であり、困るのも堀木である。世間というのは、個人に過ぎないのだ。

この真理に気づいて以降、葉蔵は、人の顔色ばかり窺う癖をやめる。

もちろん、堕落した生活に変わりはないのだが、世間体というものを気にしなくなった葉蔵は、堕落したことさえも気に留めなくなるのである。

そして最終的には睡眠薬を大量摂取し、自殺するに至る。それを見た家族は彼を脳病院に入院させる。人間、失格である。

おわりに:世間とは虚構

本著は、太宰治の堕落しきった生活を描いただけの作品であるが、女史は、ここから、世間とはただの虚構でしかないことを学び取った。

世間という言葉は、我々の心の中では、巨人の番人のような役割を果たす。我々は、こんな恥ずかしい行動をしてはいけない、こんなことを人前でいうと世間が何と言うか分からないから黙っておこうetc..、というように、世間というものを気にしながら生きている。

しかし、結局世間とは存在しないのである。私たちが「世間」と言うときに考えているのは、自分の親や上司、隣の家のおばさんなのである。

そう考えて見ると、世間とは巨人などではなく、ただの顔見知りのしがない人間たち数人なのだ。そんな人達にどう思われようが、知ったことではない、と女史は考え始めた。さすがに太宰や葉蔵のように、借金して酒に溺れて迷惑をかけたりすることは良いことではない。しかし、彼らの意見や視線など取るに足りないものであり、彼らに被害を与えない限り、自由に生きればいいのである。


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