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『認知症解放宣言』から学んだ大切なこと

5、6年前の話ですが、市役所の高齢者福祉の部署にいたときに、情報発信メディアを主とするプロジェクトを立ち上げました。そのプロジェクトは身に余りすぎる賞までいただきました。

プロジェクトを通したすべての出会いが私の人生に大きな学びをもたらしてくれましたが、その中でもとりわけ大きく深い気づきと学びとなったのが、認知症に関する特集を組んだときでした。


認知症解放宣言


「認知症特集」のフリーペーパー表紙
特集のハイライトは見開きで「認知症解放宣言」

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私たちのプロジェクトの特徴かもしれませんが、私も含めメンバーは福祉に詳しくありません。福祉の外側から来た者が、話を聞きに現場に行き、出会い学んでいく中で、気づいたり考えたりしたことを発信していくスタイルです。

福祉や介護の専門ではない私たちが、認知症をどう捉え、何を気づき学んだのか。そして、専門ではない私たちが、認知症を取り巻く諸課題に対し、何ができるのか/できないのか、どう向き合っていくべきかを等身大でまとめていきました。

そうして私たちがこの特集の中でたどり着いたのが、「認知症解放宣言」です。

誤解を生みやすいワードなので少し説明します。
認知症の方や認知症の症状を解放するわけではありません。
そんな力はもちろんないですし、そんな大それたことを言う気も毛頭ありません。

私たちにできることは、認知症の方を「認知症の人」という『くくり』で見るのをやめることです。認知症の人ではなく、おひとりの人として向き合うということです。

先ほどのフリーペーパーの画像をもう一度ご覧ください。

ぼやけた写真の表紙と、見開きの解放宣言の写真。これは同じ写真です。
このおばあちゃんを「認知症の人」として見ている表紙は、ぼやけています。

でも、特集の学びの過程で、私たちは「認知症の人」という人がいるわけではないことに気づきます。そして、単なるひとつの認知症という疾患/状態で、その人全体を『くくってしまう』ことが、認知症を取り巻く問題を深くしているのではないかと考えるように至ったのです。

あの人は認知症だから。
認知症なんだから、そんなことはできないよ。

「認知症の人」とくくってしまうことで、その人がまだまだできることや、その人がやりたいこと、ありたい日々の暮らしの多くを奪ってしまっているのではないか。

認知症といっても、人によってその症状や進行具合はさまざまなのに、一緒くたにしてしまう。それだけじゃなく、一人の人間の、名前も性格も好みもこれまでの人生もみんな「認知症の人」で上から塗りつぶしてしまっているんじゃないだろうか。

認知症の方の生きづらさの何割かは、この私たちによる「認知症の人」という『くくり』とスティグマによるのかもと思うのです。

だから、認知症解放宣言は、認知症の方を解放するのではなく、「認知症」という色眼鏡でその人を見てしまう、くくってしまう、私たち側の偏見やスティグマから私たち自身を解放することを宣言した内容となっています。

その人が認知症だろうが、その人と当たり前に向き合う。
認知症か認知症じゃないかの間に『線を引かない』という自分への宣言なのです。

色眼鏡から解放され、認知症の人ではなく、一人のおばあちゃんとして向き合うことで、表紙ではぼやけていたおばあちゃんが、見開きの宣言ページでははっきりと姿をあらわしている。

おばあちゃんは変わらずそのままなのに、私たちの偏見というメガネがおばあちゃんをぼやかしていた。その人を見ていない、その人と向き合っていない私たちの社会の見え方を表紙では表現しています。

この特集の結びを掲載します。


一括りにしない

認知症について考えていくうちに、十把一絡げに認知症の方をくくらないこと、そして、認知症という人がいるわけではないので、その人の一部の症状や特徴でその人全体を見るのをやめることにたどり着きました。

そこで、気づいたのです。

あれっ、私たちも同じようにくくられた経験があるなと。

私は、福島県いわき市で生まれ、今もいわき市で暮らしています。
12年前に東日本大震災がありました。

地震、津波だけでなく未曾有の原子力災害もありました。
その時には、私たちはくくられたのです。

被災者、

フクシマ、

と。

被災の状況は人や地域によってそれぞれなのに、一括りで扱われたような気がします。

自分よりもっと大変な方がいるのに、、、

そんなことを思い出し、先ほどの認知症特集の最後に、自分たちの実体験も重ね合わせ、「一括りにしない、人を見る」と結びました。


認知症、被災者だけじゃない?!

認知症から被災者。
一括りにしていはいけないという気づきが連なってきましたが、よくよく考えてみると、今の世の中、この「くくってしまう」ことに起因する問題や生きづらさが溢れているんじゃないでしょうか。

”ハラスメント”でググってみます。


引用:株式会社エージェント『みんなのキャリア相談室

うぉっ!

このハラスメント一覧には、なんとなんと47種類ものハラスメントが書かれています。ハラスメントバブルの様相を呈しているような、、、

この中でも一部の属性でくくってしまうことに起因するハラスメントがいくつかあるように見受けます。

結婚に関するもの
マタニティ
年齢
ジェンダー
性自認
人種…などなど

女性なんだから、
子どものくせに、
いい歳して、
LGBTQなんでしょ、
○○人だから

その人の一部の属性と、その人個人は関係ないですよね。
今騒がれている問題の多くが、実は「くくってしまう」から起きているのかもしれません。


分断の線はひかない

つらつらと偉そうなことを書いてきましたが、「じゃあ、どうすりゃいいんだ?」に対して、答えを持っているわけではありません。

一見遠回りで、面倒くさいかもしれませんが、やっぱり、一部の属性でその人をくくらないに尽きると思います。

脳ミソはラクしようと、さぼろうとして、油断すると無意識的に「くくろう」とする。が、くくらないように気を付ける。意識していくことしかないと思っています。


「くくる」と線引き

「くくる」には、線を引く必要があります。

男と女
大人と子ども
認知症/認知症じゃない
被災者/被災していない

線を引く。
違いを見つけ、つくり、際立たせる。
そして、くくる。

「くくらない」よう意識することは、「線を引かない」を意識することでもあるかもしれません。

分断をつくる線は引かない。

冒頭で書いた『igoku(いごく)』というプロジェクトを一緒にやってきた、ローカルアクティビストの小松理虔くんが最近書かれた「常磐線舞台芸術祭」の超素敵なステートメントを最後にご紹介して、このとりとめのない文章を締めくくりたいと思います。



分かち断つ線は引かない。
一部の属性でその人をくくらない。
そして、「つなぐ」線を手繰り寄せていきたいと思います。


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