いちろー
いちろーの暗い話です
いちろーの日記です
幸福とは、当たり前に人それぞれの価値観によって形作られていく。 そこで重要なのは「善悪」という要素よりも「好き嫌い」という単純な感情だ。 かのラーマ・クシュリナは、脳内麻薬を操ることによって生きながらニルヴァーナを現世で体現してみせた。 このくらい自分をマスター出来れば、強靭な感情を獲得できそうだが、これは極端な例の気もする。 SNSなどで見かける善悪を語る投稿の多くは、この「善悪<好き嫌い」が幸福を形成する事実を忘れている。 あるいは意図的に省いているのかもしれな
色々な場所に行く。色々な人に会う。 そーゆー生活がしたくて今の仕事を選んだところがある。 そんな経緯を知っている友達たちは今だに、 「東京よりも〇〇の方が面白い!」とか「イチローくんは〇〇さんに会った方が良い」とか、 定期的にそんな連絡をくれるけど、 「ちょっとごめんなさい今それどころじゃないので電話切りますね」って言いたくなるくらい生活にどっぷりハマっている。 生活って、もうなんかすっごい広いし、めっちゃ深い。 子どもが生まれるまでは、音楽とか仕事とかインター
ある分野で優秀な成績を納めた人が、こう言うとする。 「才能なんて努力しない人の言い訳だ」 でも実際は、人より強い体も、努力できる心も、物事に熱中できる情熱も、全て才能だ。 資質に恵まれている人というのは、時にそのことに無自覚になり残酷な言葉を放つ。 怠けでも、甘えでもない。資質的な弱点は必ず存在すると思える。 人には、苦手なこと、どうしてもできないことというものがあって、 そのかわりに得意なことが存在し、他の人が嫌いでも苦もなくできることがある。 悲観ではなく、
ずっと黙ってたけど、街の中華屋が好きだ。 俺は個人経営の中華屋を目ざとく見つける特技を持っている。 この前入った中華屋では今だに素で「じぇじぇじぇ」を使っている大将に出会った。 正確には野球中継を観ながら、 「今のはストライクやろ~!じぇじぇ!」 と言っていた。俺の記憶からは、33%の減である。 もうしばらくしたら「じぇ」となり、そのうち跡形も無く消えてしまうのだろうか。 「じぇじぇ」に関してよりも定食が1500円に設定されていて少し驚いたが、 まぁ財布には2
さいきん、子どもたちの健康を考え自炊することが増えた。 もともと料理は嫌いじゃなかったけど、栄養素や美味しさを追求したこともまた、ない。 子どもは時に残酷だ。マズイものをマズイとヘーキで口にする。つらたん。 油に指を突っ込んで、薬指が進撃の巨人みたいになっちゃうこともあるけれど。 それでも外食よりは確実に美味しいし、なんだか生きてるって感じがしてくる。 美味しい料理を作るというのは、マズくしないように調整しながら化学反応を起こさせることだと思う。 料理は皆、野菜な
生きていくのが苦しい、辛い、という状況は、呼吸の方法を忘れてしまっているのと同じだ。 言い換えると、考えない方がうまくいくことを、考えてしまうような。 人はこの状況でもがき続けると、なんとかしようとして、余計に事態を複雑化させてしまう傾向がある。 力を抜けば身体は浮かび上がることを知らない人から順番に、溺れていく。 死にたい人は死にたい人に共感する。前向きになりたいのに、悲観的な人の言うことしか信用することができない。 そうした人が手にできる人生の肯定論は必然的に「
2023年になった。 自分について言えることは、わりと今、気分的に底辺にいるということで。 こういうとき「これ以上、下がることなんてないんだから、あとは上がるだけじゃないか」みたいなことがよく言われるけど。 しかし実際のところ、人ってものはどこまでも際限なく落ちていってしまうものだと、わたしはそう考えている。 この冒頭の書き出しも、あるいは悲観的に過ぎるかもしれない。 ただ、フラットになんとなく「今、メンタルがすごく低い所にいるな」って思っているだけなので。 あまり生活に支
幸せは大きくなければいけないだろうか。 朝起きて手つかずのいちにちがそこにあって、ささやかな趣味に思いを馳せる生活には意味がないだろうか。 夢は偉大な職業でなければいけないだろうか。 自然の恵みに感謝し、日常の生活を慈しむだけでは志が低いだろうか。 誰もが役に立つものしか求めなくなった世界に、自然やアートは果たして存在し得るだろうか。 幸せや夢ってものは、他人と競争したり比べたりすることで、貪欲に誇張されていく。 最初は単純であった【好き】という感情が余計な脂肪を
自分は【好き】に対して【嫌い】が多すぎると思う。 これのせいで生きづらいのかなと考えていた時期もあったけれど、同時にこんなことも思う。 嫌いという感情は、ある意味その存在を認めることだと。 存在することを許すことだと。 自分の中のネガティブな感情を許し、相手の存在を認めることで、私たちは遠い別々の場所でバラバラの価値観を持って生きていくことができる。 仮に善悪や優劣で相手を根絶やしに滅ぼせるなら世界はもっとシンプルになるのかもしれないが、実際にはそんなことは不可能で
わたしたちの日常は、唯一の答えを探してしまうと息苦しくなってしまう。 あらゆる物事の一部分は一部分でしかなく、それ自体が答えになり得ない。 どのようなことでも限られた視点のみで全体を見通すことは不可能だと思える。 特に個人の考える「しあわせ」のような頼りない概念がテーマならなおさらだ。 ここでは、ある側面からその存在を定義付けしてしまうことの危険性について考えてみたい。 その精神は、実に簡単に人々の生活を脅かす。 自分はひとりでいる時はこんなことばっかり考えてしまうんだ
20代のはじめ頃が、自分の人生の底だったように思う。 かろうじて食べていけるギリギリの仕事はしていたが、それ以外の時間はほぼ何もできない、という時期が1年ほど続いた。 何もかもが億劫だった。動かなくていいのなら何時間でもジッとしていた。 その頃、メンタルクリニックにでも行けば何かしらの診断名が付いて、カラフルな錠剤が大量に処方されたと思う。 ツライことがあっても楽しいことがあって帳尻が合えば呼吸を続けられるけど、当時は負債ばかりが重なって、自分の人生の収支は一生合わな
溺れるこころ 気晴らしにショッピングに出かけたのになんだかひどく疲れた。 手に取りやすい物で溢れた部屋は虚無感でいっぱいになる。 引き伸ばされた生活の中で我々は学んでしまった。 こうなってはもう、指一本も動かせない。 この気持ちはどこからやってくるのだろう? 決められたしあわせ じぶんの幸せについて考える。考える必要のないことを考える。 幸福に関する考え方は時代によって変化してきたが、基本的には【豊かなこと】であったり【愛すること】あるいは【愛されること】と現
心の枯れ葉が落ちる音が聞こえる。 あんなに青々と茂っていた心の大木も、今となっては枯れ葉3枚を残すのみとなった。 この葉っぱが全部落ちるころ、俺の頭は完全におかしくなっているかもしれない。 「note再開しよ」って思ったのには理由がありまして。 先日、サーバーに関するおちゃめなミスをぶっこきまして。 今まで書いてきた雑記ブログと特化ブログを一瞬にして吹っ飛ばしてしまいまして。 きたなー、とうとう、俺のところにもサイバー攻撃が、なんつって。 変だなー変だなーって言