夢ハラスメント-2
ある分野で優秀な成績を納めた人が、こう言うとする。
「才能なんて努力しない人の言い訳だ」
でも実際は、人より強い体も、努力できる心も、物事に熱中できる情熱も、全て才能だ。
資質に恵まれている人というのは、時にそのことに無自覚になり残酷な言葉を放つ。
怠けでも、甘えでもない。資質的な弱点は必ず存在すると思える。
人には、苦手なこと、どうしてもできないことというものがあって、
そのかわりに得意なことが存在し、他の人が嫌いでも苦もなくできることがある。
悲観ではなく、できないことを見るということは、できることを探すということにつなぐことができる。
誰もがステージでスポットライトを浴びられるわけじゃない。
全員が4番でエースなどあり得ないし、皆が漫画家になれたらジャンプだって広辞苑みたいになってしまう。
人がある分野に対して持っている資質は、聞いたところによるとかなりの割合を遺伝が占めているらしい。
本当だとしたら、とても残酷だ。
資本主義的な価値観において、個人の【好き】という感情は、何の意味も持たない。
だからこそ私たちは思ってしまう。
自らの【好き】が無意味なはずはなく、ならば才能によってこの感情に価値を付けよう、と。
しかしそれは、個人的な感情を「金額」と「成果物」だけを評価するものに貶める行為となる。
まるでチェーン店のアルバイトがその仕事を好んでいようがいまいが、気にも留めない経営者のように。
資本主義社会は「私は好きだ」という感情に判断を委ねないことが推奨されているのだから。
たとえば、あなたのまわりに素晴らしい絵を描く友達がいるとする。
あなたは友達の描く絵が大好きだ。だからその人にずっと描いてほしいと願っている。
ところがある日、その友達はインターネットで自分より上手に描く人や、自分より評価されている人が星の数ほどいることを知ってしまう。
その友達は自分が絵を描く意味を見失い、描くことをやめてしまう。
途方もない自らの夢を痛感し、自己否定までするかもしれない。
あなたは説明するだろう。その人の描く絵が大好きだ、と。
けれどその人は、自分の絵が他人の描いたものより劣っていることに気付いている。
SNSでいいね競争が始まる。メディアが価値のあるものはこれだと掲げる。
ある部分では手応えを感じていたのに、全体を比較し、滅入ってしまう。
あなたにとって【友達の絵こそが一番の作品である】ということを、あなたは決して説明することができない。
【好き】だという感情が正しいとわかっていながらも、その思いが主観に過ぎないことを知っているからだ。
あなたがどれだけ、自分の【好き】を語ろうとも、
何が良くて、何が悪いのか、ということを熟知した人たちの冷たい客観論が、それを閉ざす。
子ども時代、周りの大人たちが「夢を見ろ」「希望を持て」と囃し立てる。
でも少年は気付いてしまった。「夢」とか「希望」なんて、画面の中のできごとに過ぎないんだと。
たしかに生きていなければ、夢も希望も語ることはできないが、
そんな大それたものが「生きていくこと自体」の意味になるのかは甚だ疑問であると、わたしはそう考えている。
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