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溺れるこころ-2

すなわち彼は帝王にならなかったが故に、彼自身であることが耐えられないのである。

キルケゴール/死に至る病







生きていくのが苦しい、辛い、という状況は、呼吸の方法を忘れてしまっているのと同じだ。

言い換えると、考えない方がうまくいくことを、考えてしまうような。

人はこの状況でもがき続けると、なんとかしようとして、余計に事態を複雑化させてしまう傾向がある。

力を抜けば身体は浮かび上がることを知らない人から順番に、溺れていく。







死にたい人は死にたい人に共感する。前向きになりたいのに、悲観的な人の言うことしか信用することができない。

そうした人が手にできる人生の肯定論は必然的に「生きることは辛いが、頑張って生きましょう」というものになる。

みんな、そんなことはわかってる。どこにも辿り着けないその思想が投げかけてくるものは「生きることが辛い」という事実だけだ。

息が出来ない、朝が怖い、生きることは辛いのはわかり切っているのに、頑張って生きなくてはならないのが、辛い。







自分にとって、生きることは楽しいことだろうか?それとも辛いことだろうか?

幸せな人は楽しいことだと答えるかもしれない。不幸な人は辛いことだと答えるかもしれない。

では、生きることとはなんだろうか。確かに自分は呼吸をし、生きてはいるが、いつも楽しかったり辛かったり、成功したり挫折したりしているわけではない。

考えてみれば、意味のあることなんてほとんど無いような気がしてくる。







昨晩の夜のアルコールの気配を振り払うことが出来ず、キッチンに溜まった色とりどりの空き瓶を倒しながら馬みたいに水を飲み続ける時間は「生きている」ことなんだろうか。

コンビニの菓子パンコーナーで自分の食べたいものがわからずにボーッとしている時間は「生きている」時間なのだろうか。

前にも進めず、後ろにも戻れず、ヘッドライトに怯えながら歩く帰り道は「生きている」瞬間なのだろうか。

生きることも、人生も、なんだか壮大すぎて、馬鹿馬鹿しい。くだらないことの連続じゃないか。







うるさい人がいる。生きること、とか。人生、みたいな言葉を使って、今すぐに結論を出させようと煽る人がいる。

ここで考えさせられる「自分の人生の点数」だとか「自分自身の有益性」だとか。

彼らは自分が、自分の持ち物が「幸せ」なのか「有益」なのか、本当のところ判断ができていない。

そういった人たちの持ち物は全て正解のない見よう見まねのパズルだ。

そんなものばかり集めているから、他の人とどう違うのか気になって仕方がなくなってしまう。みんな不安なのだ。







冒頭で言ったように、生きていくのが苦しいというのは、呼吸の方法を忘れてしまったのと同意で、

呼吸の方法がわからないときに、呼吸の方法を人に聞いても、その人は無意識にできているわけなので、溺れている人間の求めている答えが返ってくるはずがない。

溺れている人間に必要なのは、先見でも視野の広さでもないと思える。

未来を、全体を見ようとするから、人はうんざりしてしまうのだと、わたしはそう考えている。











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