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かおのない人々-2

自分は人一倍生きるのが下手だと思っている者とは、うまく立ち回ってうまい汁を吸いたい欲望が人一倍強い者である。そういう欲望が強いため、彼は、うまく立ち回って吸いそこねたうまい汁のことが気にかかり、何とか自分の気持ちを鎮まるような説明を考え出さざるを得ない。

岸田秀/ものぐさ精神論






幸福とは、当たり前に人それぞれの価値観によって形作られていく。

そこで重要なのは「善悪」という要素よりも「好き嫌い」という単純な感情だ。

かのラーマ・クシュリナは、脳内麻薬を操ることによって生きながらニルヴァーナを現世で体現してみせた。

このくらい自分をマスター出来れば、強靭な感情を獲得できそうだが、これは極端な例の気もする。






SNSなどで見かける善悪を語る投稿の多くは、この「善悪<好き嫌い」が幸福を形成する事実を忘れている。

あるいは意図的に省いているのかもしれない。狡猾に隠しているのかもしれない。

自分の善悪が全ての人の幸福につながると信じてやまない人が、いつも誰かをオーバーキルしている。






なんなんだろう?【良い人間】とか【悪い人間】というのは。

善行を100回積んで、罪のない人を殺した人間はどちらに属するのだろう?

悪行を100回行って、世界を守った人間はどうなのだろう?

1000回なら?10000回ならどうだ?

良いことと悪いことを100回ずつした人間と、何もせず引きこもっている人間ならどちらの評価が高い?






書いててバカバカしくなってきた。

良いも悪いもないのだ。同じ人間なのにそんな概念が通用するわけがない。

人が誰かを【良い人間】だの【悪い人間】だの言うときは、誰かが他人を都合よく動かしたいか、
もしくは気に食わない誰かを村八分にしたいかのどちらかであると、相場は決まっている。

私たちは人間の扱い方とか、配慮が、自分の好みに似ている人たちを選んでいかなくてはならない。

強い言葉での断罪が変えられる現実は、ほとんど無いのだから。






誰にでも、何にでも、自分にしろ、あなたにしろ、
良いところと悪いところがある。

良いところも悪いところもあるのだから、ある側面を見て「良いもの」「悪いもの」と規定することは本当に無意味である。

仮に誰かに「良い人」「悪い人」という固定観念を抱いている場合、いざ現実がそこから外れた時に一気に混乱してしまう。

ある場合に人は「裏切られた」と言い、ある場合に人は「そんな事実は受け入れられない」と言ったりする。

「良いところも悪いところもある何か」をそっくりそのまま受け止めることこそが、自分自身を生きるということなのに。






自分自身を生きることができないと、他者的な価値観にすがるほかない。

一度悪いことをした人間を未来永劫悪い存在として扱い、行動の単体を無視してしまう。

厳しい視線は他人を刺し、周囲の人間を刺し、いつかは自分自身を刺す。

「良い人間」「悪い人間」の固定されたイメージは、そこから少しでもはみ出してはならない、というプレッシャーを生む。

そしてそのまま脱線し、取り返しのつかないところまで自分を追いやってしまい、高所から足を踏み外す。

道徳も、規範も、何もかもが日々変わり続けている。

常識はいつだって完成品のような顔をしているが、これらはいつだって時代と共に常に更新されてきたものだ。






考えすぎて苦しんでいる人は言う。
「何も考えていなヤツの方が幸せそうに見える」と。

それがもし事実だとするならば、何も考えていない人は無意識に「断面から全体を考えようとしない能力」が備わっていると考えて良い。

これは大切な資質で、自分本来の価値観で生きるには欠かせない力である。

誰しもが生まれながらにこの能力を有していて、これさえ忘れなければ他人の言葉や価値観に一喜一憂せずに人生を楽しむことができる。

そしてこの力をいちばん発揮しているのが、世界中の幼い子どもたちだ。

時代に取り残されるというのは流行についていけなくなることではない。

視点の少なさ・視野の狭さによって、新しい価値観をインストールできなくなることだと、わたしはそう考えている。










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