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かおのない人々-1

見たろ、ドラえもん。かったんだよ。ぼくひとりで。もう安心して帰れるだろ、ドラえもん。
帰ってきたドラえもんより






自分は【好き】に対して【嫌い】が多すぎると思う。

これのせいで生きづらいのかなと考えていた時期もあったけれど、同時にこんなことも思う。

嫌いという感情は、ある意味その存在を認めることだと。

存在することを許すことだと。

自分の中のネガティブな感情を許し、相手の存在を認めることで、私たちは遠い別々の場所でバラバラの価値観を持って生きていくことができる。

仮に善悪や優劣で相手を根絶やしに滅ぼせるなら世界はもっとシンプルになるのかもしれないが、実際にはそんなことは不可能である。






考えてみれば社会は複雑だ。

「嫌い」と表明することさえ許されない環境が多すぎるのがその原因かもしれない。

その環境の代替え行為として、大勢のかおのない人々が支える善悪の概念で他人を批判する人がいる。

「私はいいと思うけど、みんなはなんていうかな?」

「俺は構わなけど、あの人は止めるんじゃないかな?」






いつだって私は知らない誰かの考えを聞きたいのではなく、目の前のただ一人の意見を聞きたいだけだった。

既存の概念を崇拝するかおのない人々は、崇高でうすっぺらい同調を目指し、日々腐らない米とカビないパンを食べ続けている。

誰かが決めた善悪や学校で習う道徳は、明白な悪【のみ】からしか私たちを守ってはくれない。

白黒が曖昧な精神的問題に関しては、むしろそれらの価値観が足かせになることをすでに多くの人が知っているにも関わらず、その価値観から自分を切り分けられる人間は少ない。






見ていてムカつくもの・つまらないもの・あるいは言動・スタンスでもいい。

そういったものに対しての「つまらない」「嫌い」もしくは「見るに値しない」などの率直な気持ちは、とても大切な感情だと思える。

でも実際にはニュースやSNSなどで取り上げられる感情はこういった主観的なものよりも、客観的な証明を兼ね備えた感情であることが多い。

「許されるべきではない」「現代的な尺度では悪に値する」「みんなが存在すべきではないと思っている」

いわゆるバズっているもののほとんどは煽り・怒り・共感の類だと思うけれど、そのどれもが私はあまり好きではない。





客観的な言葉があまりにもムカつくとか、そういうのが心底ツラいとかそういうわけでもなくて。

単純な話、自分が思い描く理想的な未来への遠さを感じてしまって、たまにかなしくなるのだ。

言ってることや、誰かが悪いって話じゃない。こういうことを思ってしまう状況がかなしい。

正しい概念や善悪とは別にある個人的な感情は、当たり前に人それぞれに違い、違うから互いに存在を確認し合い、許し合えるものである。

好き・嫌いの感情は善悪とは性質が全く異なる。何かを断罪もしないし、抹消もしない、戦い合うことすら必要ない。






「私はあなたのやり方が不満です。でもそれは個人的な感情です。あなたの行動には制限がありません。」

「私はあなたのことが嫌いです。しかしそれはあなたより私が優れているということではありません。」






主観に基づいた感情や行動は、誰かが決めた善悪のように【白・黒】・【0・100】・【認・否】のような世界の話ではない。

その人の中にもともとある、核の部分の個性であり、守るべき自分を証明するための性質だ。

それを、測ってはならない。罰っする意味もない。否定は誰にもできない。何かの隣に置いて比べるようなものではない。

古来より存在した部族やコミューンは、知性や徳性の信頼できるひとたちが、それぞれにかたまって生活していたらしい。

もしかしたらそんなものが一番良かったんじゃないかって、最近ずっと考えている。






かおを持たない人たちの善悪の概念の剣が、わたし達の代わりに不平不満を切ってくれるなら、それは大変助かるだろう。

それが「本当に狂っている人たち」の前では無力であるという事実を抜きにしても、多数決で決まる社会で道徳が評価されるのは当然だと思える。

しかし、もし、わたしの前に今、現れた脅威や恐怖が、あらゆる悪の定義から外れていたらどうだろうか。

その新たな新種の害悪から自らを守ってくれる存在はこの世には存在しないだろう。

むしろ、悪ではないものを否定したわたしが、かおのない人々によって断罪されるかもしれない。






それでも、わたしたちは、「どのような高い評価を受けているものであれ、わたしはそれが嫌いです」と言っていい。

好き・嫌いは互いの存在を許し、共存が可能な感情だからだ。わたしたちはもっと、もっと、バラバラになれる。

むしろバラバラにならなければ、好きも嫌いも感情も何もかも、いつかは枯れ果ててしまうだろう。

なんか嫌だ・これは嫌いだ、という感情は自分の精神を害する存在から身を守る、ほとんど唯一の道しるべであると言っていい。

なぜなら本当の意味で【自分を守る】ということは、自分自身の手によって成されなければ無意味なものだからだ。

特にわたしのような趣味や夢追いを生活の一部としてしまった人種には、こういったことが人生に大きく影響していく。






既存の価値観が自分の代わりに困難を解決してしまうというのは一見すると素晴らしいことのように思えるが、

これに依存していくと価値観や感情が既存の概念を参照しないとなにも機能しなくなるという危機に陥ってしまう。

冒頭で引用した【帰ってきたドラえもん】のラストシーン。

ドラえもんを失ったのび太が、苦しみながらも自身の力のみでジャイアンにという逆境を克服するシーンはこれを象徴すると思う。

ここでもし親や教師が介在し、ジャイアンを断罪したならば、きっとのび太の自立するきっかけを奪うことになっただろう。

重要なのはのび太がジャイアンを殴り飛ばすことではない。のび太が感情を守る術を勝ち取ったということだ。「嫌だ」と叫んだことだ。

どのような世界線においても、足が長くて目立つやつより、生き方が突き抜けてるやつの方がかっこいいのは、

それは自身の顔をちゃんと持っているからだと、わたしはそう考えている。










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