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ユートピア

先月、実家近くの市民会館で仕事があった。

初めてライブを観たのも、ステージに立ったのもこの小屋だったので、毎回来ると感慨深い気持ちになったりする。

このステージで、「3万円のギターでもここまでやれんだよ~!!」って言いながら、大人の男のひとがギターかき鳴らしていた。

それをフロアーから眺める自分はまだ中学生で、このときの自分の顔を20年以上経った今でも好きなだけ思い出すことができる。




※皆さん、お気づきかと思いますが、今回もどうでもいい日記です。









リズムに合わせてステージの照明が光るたび、自分の惚けた表情が照らされる。

白熱電球の調光のカーブや、床の色、壁の素材、自分の座席の位置や匂いまで、全て鮮明に再生できる。

とはいえそうなると、自分で自分の顔をステージから見下ろしていたことになるわけで、この記憶はきっと人生の蓄積で形作られたものだ。正しくない。

正しかろうが正しくなかろうが、自分の脳内にはきっちりと記憶として存在している。




このような記憶は、地上波を録画したドラゴンボールのVHSみたいに荒々しく劣化しているけれど、映像の状態で記憶されているから、着ているTシャツや、パーカーの色落ち、ヨレ具合まで全てわかる。

そのとき羽織っていたパーカーはチャックが故障していて、いつも同じところで引っかかる。

初めての音楽体験だったこの時の記憶を、何回も忘れたり思い出したりしている間に、劣化・強化を繰り返して、その上で少しバグって、先ほど説明したような映像になっていると想像する。

人の記憶なんてそんなもんなのかも。昨日の記憶も、今日の記憶も、誰の記憶も、どれも大してあてにならないのかもしれない。




そんなバブちゃんだったいっちゃんも、昨年末ついに37才になった。

最近はなんだか感覚も記憶も何もかもが曖昧になってきていて、陽の光を浴びているだけで幸せを感じるようになってきた。土なのかもしれない。

この地元の小屋はもちろん、どこに行っても「おかえり」って言われるし、もはや故郷との境目がどこだかもわからない。混乱する。




昔の言葉に「i and i 」というのがあるけど、自分も他人と自分を区別しないことが増えてきた。

自分が自分と認識しているやつも人間一体と無数のバクテリアのことだし、こうやって触っているスマホや穿いているトランクスくらいまでは自分なのかもしれないとも思う。

移動中やひとりの時は、このようなことばかり考えてしまう。
言うても何かを悟ったわけでもなくて、単純にちょっとずつ土に近づいているだけである。40になる頃には、俺はかなり土だと思う。

土との境界が曖昧になる自分を鮮明にイメージすることができる。




感情の起伏が年々乏しくなってきている。新しい音楽で感動することも減ってしまった。

それでも子どもたちと遊んでいる時間は楽しい。いつも一緒になって叫んで飛び跳ねて笑っていたりする。

子どもと一緒にいる瞬間だけは、自分と土との距離が離れる。やっぱり俺は土じゃなかった。

どんな最低の気分の時も、一緒にいると喜びを隠すことができない。笑顔を見るだけでとんでもない量の脳内麻薬が出て多くの思い出たちが溶けてバグってしまう。

まぁ、記憶なんかまた作り直せばいいし、少ない余生はこういうパワーに身を預けて過ごしていきたいものだ。どんどんホバっていきたい。








ときに、来月からあるバンドでギターを弾くことになった。

ちゃんとしたステージでギターを弾くのなんて10年ぶりくらいなので、かなりドキドキする。

家でもあんまり弾かないから俺のギターはすごい変でかなり下手だけど、良い悪いで言ったら良い気がする。

今回使うギターは、会社のゴミ捨て場で拾ったやつを3000円かけて直したやつ。

3000円のギターってのは、どこまでやれるのだろうか。














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