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夢ハラスメント-1

良いエンディングなんて現実の世界にはないし、そんなものスティーヴン・スピルバーグが売れる映画のために作ったものだ。

ボージャック・ホースマン







幸せは大きくなければいけないだろうか。

朝起きて手つかずのいちにちがそこにあって、ささやかな趣味に思いを馳せる生活には意味がないだろうか。

夢は偉大な職業でなければいけないだろうか。

自然の恵みに感謝し、日常の生活を慈しむだけでは志が低いだろうか。

誰もが役に立つものしか求めなくなった世界に、自然やアートは果たして存在し得るだろうか。






幸せや夢ってものは、他人と競争したり比べたりすることで、貪欲に誇張されていく。

最初は単純であった【好き】という感情が余計な脂肪を付け、ブクブクと肥大化し、

もともと持っていた感情は他者的な価値観によって自分から剥がれ落ちる。

あれ?なんでわたしは他人よりすごくなければいけないのだろう?

なんでわたしは他人より上手でなければならないのだろう?

なんで、なんで、わたしは、好きなことを続けていただけなのに、

こんなにも不幸なのだろう?






夢追いや幸福の追求によって生活の一部だった希望が潰えていくのは皮肉だ。

競争の渦に巻き込まれてしまうと、そのようなことを考える間も与えられない。

その場では疑問を持つ者は負け犬として扱われてしまうから。

自由の輝きの中にたしかに存在していた自分の小さな夢、願いは、

いつの間にか苦労や痛みを伴わなければ成立しない物にすり変えられてしまっている。

でも、わたしたちが生きるのはうんざりするほどの現実なのである。

物語に登場する主人公のように立派に苦難に立ち向かおうとも、その先の大団円は約束されていない。






誇張された夢に苦難がつきまとうのは、苦難がなければ物語にならないからだ。

物語は他者を楽しませるものとして存在を許され、機能する。他者の物語を生きるべきではない。

たとえばプロのギタリストに「なぜそんなフレーズが思いつくのか?」と尋ねるとき、わたしたちは「陰での努力の成果である」という言葉をどこかで期待している。

でも実際は「なんとなくです・テキトーです・練習は嫌いです」などと言った身も蓋もない回答が返ってくることがほとんどであり、そこには物語性も可能性も伴ってはいない。

プロとか天才ってのは実際にはそういうことであると悟ったその日から、わたしはそれなりにギークに、あるいはディガーに、生きることを決めた。

それでも今なお、この瞬間、あらゆる人間に、ものすごいスピードで追い抜かれ続けている。






もとあった自分の願望や、好きや嫌いという個人的な価値観は、「夢とはこれである」だとか「幸せはとはこうである」というような枠に収めようとすると、とたんに霞んで見えなくなっていく。

ただ、霞んでしまったとしても、その思いが消えてしまうということではない。

たとえばわたしは、他者的な価値観の中においても、当てもなく楽器を演奏したりだとか、延々と文章を書いてみたりすることが好きなんだと思える。

こういうことだけは他人がどれだけ止めようと、(何度も立ち止まりながら)続けてくることができた。

逆に他人がどれだけ推奨しようと、多くの人に直接関わったりすることが全然好きになれない。

他にも嫌いで苦手なことが多く、それらからはほとんど逃げるように生きてきてしまった。

逃げずに何かに全力で打ち込んで成果をあげる人や、なにか1つのことを極めた人は素敵だけど、成功の形はひとつではないはずだ。






自分には昔から自分自身の欠陥を見つめてしまうクセがあって、その類まれなる弱さというものに向き合うのに人生の多くの時間を使ってきてしまった。

しかし今は、自分の本質的な価値観が同じような欠陥を持つ他者を許し、励ますことができることを知った。

それは弱者であるからこそできることであり、夜な夜なここで文章を書くことの、ほとんど唯一の意味である。

社会人となり、生活が立ち行くようになってからは、自分がどんな風に生きていったら「自分の思い描く理想的な社会」に近付けるのか、に興味を持つようになった。

わたしは「自分さえ良ければ良いひと」よりもわがままなのかもしれない。

社会も未来も。自分も友達もみんな。全部それなりに良くないと嫌だなと思ってしまうのだ。

どうにかして、そんな文章を書けるようになるといい。そんなことを考えている。










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