【香り×ことば】お気にいりの一冊を香りに②
アロマ書房さんのアロマセッション。
ひとことでいうと最高なのです。
大切な物語の香りを作ってもらえる。ことばを拾ってもらえる。それはそれは丁寧に拾ってもらえる。
それはきっと誰にとっても幸せな体験で。そうして出来上がる香りはきっと、お守りになるから。そんな、自分が知りたい香りと出会えた日について書きました。
▼今回はこの記事のつづきです
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その日のわたしは自分の好きな物語を香りにするため、わくわくどきどきしながら下北沢駅まで電車に揺られていた。
「読むアロマ」トライアルセッションの会場となっている下北沢の本屋さんへ。
アロマ書房さんとは2回ほどお会いして、いろいろお話もさせていただいていたのだけれど
実はこのセッションを受けてやっと(改めて)ああ、この方はやはり「読むアロマ」の方なんだ、と知った。
この読むアロマというのはそもそも本を読むの「読む」から来ているのだろうけど
アロマ書房さんご自身も、なんだか人の心を読んでいる(汲むという意味での)ような気がしたのだった。
トライアルセッションではヒアリングをしながらその場で香りを調合していく、ということを事前に聞いていたので
ある程度心の準備はしていたものの、実はわたしはこの所謂ヒアリングというものが下手だ。好きだけど、下手なのだ。
普段の会話でも自分の考えをうまく伝えられないことが多いし、せっかく自分に興味を持ってくれる人にもうまい受け応えができず心残りがあるまま帰ることは少なくない。
相手になにひとつ伝わらなかったような気がして、なんのための時間だったのかわからなくて。それについて1週間くらい、いや、正直ずっと引きずる。
そりゃあ準備していけば少しはマシだろうが、相手の顔色を伺って焦ってしまう癖はいつまでたっても治らず、落ち着かない。
緊張を隠すようにその場しのぎの実りのない話をしてしまい、気が付けばいつまでたってもヘラヘラ笑っているだけのハッピー野郎で居たりする。虚無。
そんな自分に不安を抱えながらも、ここまで来てしまったのだ。正直「まあ伝わらなかったとしても、それはそれで今の自分の力量だしな」と、諦めともいえる覚悟をしながら。
そうしてヒアリングがはじまった。
ここまで書いておいて、もしこれを読んでくださっている方がいたらきっと拍子抜けさせてしまうことになる。
なぜなら、はじめの質問はなんだったのだろうか。わたしはもう覚えていないのだから。
どんな質問をされて、あの「答え」に辿り着いたのか。非常に朧げだ。
選んだ物語についての印象(感想というより印象深いものとか?)などを聞かれて、それをどんどん紐付けていく作業内容だった気がする。
それを「因数分解」と仰っていたのは、響きが好きだったので覚えている。と、思う。
そのくらい朧げで、まるで夢の中を歩くような感覚だった。
だから素直にそのとき感じたことだけを。
それによって考えたことだけを書いていく。
ヒアリングがはじまった。
アロマ書房さんが「何か」を質問してくださった。
その瞬間。
その場の空間とわたしの感度が豹変した。
まるでひとつの繭に包まれたかのような。
ことばが優しく広がって反響するような。
そんな独特な空気が作られたのだ。
それからは、お互いの言葉のひとつひとつが吐き出されるたびにそれがその場に一瞬ふわっと漂い、やがて静かに降りてきて留まっていく。
「探す」つもりで行ったのだけれど、わたしの場合は「降りてくる」感覚の方が強かった。
留まったものは染み込むように自分の心に吸収されていき、脳で理解して、また心で納得する。
それらの工程はとても直感的に、しかし確かな感触をもって行われていった。
ゆっくりと丁寧に行われていくそれは、会話というより自分との対話のようで。
まるでそれは「問答」だった。
問うこと。答えること。それに沈んでいけること。鎮められること。そういう瞬間をわたしは自分にとっての問答だと思っている。
おそらく、あれはきっとアロマ書房さんが組み立て、紡いでくださった哲学的な時間だった。
とても穏やかで、しかしハッとするような鮮明な瞬間を繋ぎ合わせていく。
相手の顔色を伺うこともなく、世間話に迷うでもなく。
物語と言葉そのものに対面し続けられた時間だった。沈んでいって鎮めることのできる、とても心地の良い時間だった。
導き出されていく単語やキーワードから紐付けられていく。
雨、声、音、時間、歴史、記憶、孤独、絶望、救済、死、祈り、神という存在(概念)。
それが新作「301号室」で書いていたこと、書きたいこと。
アロマ書房さんの質問には、普段のわたしでは考えられないような自分がしっくりくる答えが導き出されていった。
わたしはふだん脚本を書いたり、詩を書いたり、演劇や映画を作ったりしているのだけれど、そんなときにいつも考えるのは「救いとは?」ということ。
その中で「とは?」のハテナを描いている。
救いとは、ではなく
救いとは?という風に。
当然、このときも「301号室」の因数分解をしていった結果その問いに辿り着いた。
救いというものはむずかしい。
何が救いかなんてことは人それぞれで、わたしも本当の答えを知らない。
だからこそハテナについて考えて、なるべく抽象的に書こうとしているのだし、だからこそ、ハテナではない方の答えはわたしには言語化できないものだと思っていた。
しかし、今回は自分が書いた物語について聞かれていて。
辞書で引いてくる言葉でもなく、宗教の教えでもなく。あくまでそれは自分にとっての答えを言語化するのだ。
救いとは。
救済とは。
それはどんなものか…?
「孤独や絶望を引き受けていく強さ」
これがわたしの辿り着いた、救済というものの希望だった。
それは改めて整理された思考と嗜好が言語化された瞬間だった。
今までも頭のどこかではわかっていたはずなのに、明確に言語化することによって「そうか、わたしはこれを知りたくて物語を書いていたのだね」と、なんだかやっと自分を理解してあげられたような気持ちになった。
そうしてこれは再び確かめるべく香りに秘められていった。
香りに「託せる」ということ。それは演劇を作る喜びと、どこかとても似ている気がした。
最後にアロマ書房さんが言ってくださった。
「脚本が完成したときや、演劇の舞台になったときにはまた違う香りが産まれるかもしれませんよ」
そうだ。物語も、人も、香りも変化していく。
そしてそれらは常に、少しずつ忘れていく。
忘れることができる。
それは新たに産まれることにも繋がる。
わたしはおそらく、この物語が完成して演劇の制作に入り、幕が上がる頃には「今」を忘れているだろう。
なぜならその頃には、わたし独りの今ではなくなっているからだ。
物語はみんなのものになり、最終的には観客の元へ運ばれる。
わたしだけのものではなくなる。
わたしだけの今は、今の香りはきっと「今」しか産まれない。
「そのときは、アロマ書房さんが感じたレシピで作ってもらいたいです」
アロマ書房さんの先ほどの言葉には、そう返した。驚きながらも、わかりましたと笑顔でお応えしてくださった。嬉しかった。
後日談。
わたしの母がこの「301号室」の香りをたいへんに気に入り、感激しながら辺りにスプレーを撒いていた。
香りと共に物語の概要を簡単に紹介しただけで「そうそう。古くてぼんやり暗い木造の教会で、雨が降って湿った匂いでしょう」とピタリと言い当てた母の野生的な嗅覚と、おそらく親子であるが故の感性の近さには驚いた。
話が早すぎて、ちょっと怖かった。
またのアロマセッションの機会には、母も連れていこうと思う。
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