それでも世界は美しい



タイトルにした、それでも世界は美しい。
そういうことをよく思う。

とくに落ち込んでいる時や、独りぼっちで、自分が自分に飲まれなそうな時ほどそう思う。

自分はこんなにも苦しんでいるのに、そんなときの空は青い。とても青い。雲は形を変えながら面白がらせてくれる。

そしてそんなときの夕焼けは何層にも色を抱えているし、そんなときの夜空は必ず月がこちらを見ている。点々と星が並んでいて、オリオン座もこちらを見つける。

ときには虹が掛かったこともあったし、雨が降っていれば傘に重なって消えない雨粒はひとつひとつが光り輝いていた。

そして風が吹いて、自分に肌の感触と体温があったことを思い出す。地面に繋がった足の存在を思い出し、その情報が血と骨と心臓に染み渡っていく。

そうして、自分がどうであろうが、どうなろうが、どうしたって。いつだって世界は美しかったのだった。

その中に人がいるだけだった。その中で人間が勝手に躓いて痛くて踠いているだけだった。ただ、それだけだった。

自分の方は「人間ってちっぽけだなあ」なんてことを思うけれど、世界の方はそんなことすら思わない。ただそこに在る。そんなときに知る美しいももの、その美しさは圧倒的だった。

こちらの状況はなんにも変わっていないくせに、それだけで少し許された気になる。いや、許せるようになる。

世界が自分を許したわけではない。自分が世界を許せるようになっただけ。いや、そう思えるだけで、実際に許せているわけではないのだけれど。

そんなとき、この風景やこの瞬間をどうしても取っておきたくてわたしはつい写真を撮ってしまうのだけれど、撮った写真を見てまた落ち込む。虚しくなる。見ているものと手にしたものが、全然違うからだ。

全然違う。自分のものにならない。
全然自分のものになっていない。

それはその風景から拒絶されたもののにように自分の手の中に残ってしまっている。いや、自ら残してしまった。

一瞬でも「残したい」と思った自分の愚かさを知る。そうして残せないままその場からまた歩き出す。それを繰り返している。

そういう意味で、絶望と希望は常に同居している。自分がどう苦しんだって、圧倒的に世界は美しくて強いのだ。

わたしという人間なんかに振り回されず、常にそれは強かった。周りの人間が絶望に飲まれていたって、いつだって空は高くて広かった。

その度に、これに飲まれて今死ねたら良いと思ったりする。「死ぬにはいい日」だと思ったりする。

けれど、今のわたしはもう少し、この風景を見たいと願う。あと何度見れるのだろうか、とも思う。何回絶望して、何回この風景に救われるのだろうか。

それを知るためだけに生きている。
それを見たくて、生き延びている。

世界はいつでも強かった。
それでも、世界は美しかった。

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