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ロビンソンの飼い犬【前編】

「ここは夢の骨格標本を集めた博物館だ」
おじさんの手の上に乗った小さなガラスケースには、彼のかつての夢が乗せられていた。
在宅ワーカーのぼくは、彼女である芽衣子の帰りを待っている。外資系に勤め、働き詰めの彼女とはすれ違うこともあるけれど、おおむね穏やかな日々を送れているとはずだった。
真夜中に帰宅したら芽衣子から告げられた、何度目ともわからない約束を破る言葉。それらを皮切りにぼくを襲う不安と焦燥、翳りを見せるふたりの関係。しかし、なにかがおかしいーーー。足下がぐらつくなか、ついにぼくは"真実"を思い出す。
くだらない夢、ぼくと芽衣子のこれから、いつか飼うと決めた犬の話。今いる場所を確かめるための物語。

あらすじ 《創作大賞2024 応募作品》

 芽衣子が両手指にマニキュアを塗っているとき、ぼくは決まって彼女にくだらない話をする。
 ヤスリで丁寧に整えた指先に神経を集中する芽衣子の左の手は、すでに薄いピンク色に染まっている。右はまだ一本目を塗り始めたところで、爪の色が若干の不健康を証明するように白かった。ぼくは母親の腕を引っ張る子供みたいに、芽衣子に喋りかける。
「夢でしか行けない場所ってない?」
 一瞬彼女の動きが止まったように見えたけれど、返事はない。ぼくは構わずに続ける。
「現実にはそんな場所見たこともないはずなんだけど、あれこの場所知ってるなって思ったら前にも行ってるんだ、夢で。なるほどここがぼくの深層心理か、なんて考えてると、次に出てくるのが博物館なんだ。
 それもかなり小さくて、一戸建てくらいの大きさしかない。なかに入ってもせいぜい十二、三畳くらいの広さだし、外側から見たときは二階建てに見えたのに階段はどこにも見当たらないんだ。そのうえ所狭しとガラスケースが並んでいるから、人が動けるスペースはほとんどない。
 大抵は両手に乗せられるくらいの小さなケースが並んでいるけど、棚の奥には人の顔くらいの大きさのものとか、壁際には天井に届くくらい背の高いものなんかもある。中身は、そうだな、名指しできるほど統一性のあるものには見えなかった。ほんとうに雑多なんだよ、割れやすそうなティーカップの隣にボロボロの野球帽があったり、古そうなゲーム機、子供のおもちゃみたいな指輪、新品らしいパソコン、ちょっとくたびれた雰囲気のベージュのワンピース。ぼくにはどういうつながりで集められているものなのか、さっぱりわからなかった。
 部屋の隅には古い作業台みたいな机と、同じくらい古い椅子があって、そこには髭面の男が座ってた。おとぎ話に出てくるような優しいかんじのおじいさんじゃなくて、もっと普通の、定年退職して髭も剃らなくなったようなくたびれたやつ。
 おじさんはこっちが喋らなくても、勝手に話し始める。
 ここは夢の骨格標本を集めた博物館だ、って。
 そこでようやくぼくがおじさんの手の中の小さなガラスケースに気づいて尋ねると、おじさんは嬉しそうに
『これはおれの標本だ。昔、海洋生物学者になりたかったんだ。でも俺の家には金がなくて、いつまでも勉強ばかりしているような余裕はなかった。大した仕事につけなくても、働く以外に選択肢はなかった。三十くらいまでは弟と妹の面倒見て、嫁さんをもらってからは家族を養うために、子供ができてからは子供たちを大学まで出してやるために。気がついたらこんな歳だ。可哀想だろ』
 そう言いながらおじさんは手のなかのものを見せてくれた。白くてコツコツした、小さな塊だった。ぼくがそれを不思議そうに眺めていると、おじさんは『幻の鯨だ』と言って笑った。
『お前、知ってるか? 深海には調査隊が入るたびに新種の生物が見つかるし、アメリカの研究チームは千年のときを超える、正真正銘の生ける化石が海の底に存在すると予想している。
 なかでもクジラは神秘的な生き物でな、クジラ構文と言われるだけあって、彼らは水の中では息ができない。それなのに未だUFO並みに実態がわかっていない種類がいくつもあるんだ。人間と同じに、空気中からしか酸素を取り込めないのにだぞ。彼らがどこで生活し、どんな声で話して、どう生きているのか。この同じ地球上に暮らしていながらまるでわからないなんて、不思議だろ』
 おじさんは渇いた唇を舌で濡らしながら話した。その口ぶりは、海洋生物学者というよりは、小学生の頃に図書室にあった、漫画で読める伝記に出てくる冒険家みたいだった。半分と少ししか開いていない目が、陽の光の差さない埃っぽい部屋のなかでゆらゆらと光っていた。
 おじさんは手のひらに乗せた白い塊を嬉しそうに眺める。なんでもニュージーランド周辺で、たった一度だけしか目撃されていない謎の多いクジラの骨らしかった。
『どうだ、すごいだろう』
 自慢気に顎を上げて右手を差し出す。よれたワイシャツの襟元が薄っすらと黄ばんで、それがすごくリアルで、ぼくはなぜかそれが少し怖かった」
 話し終えて彼女の右手を見ると、爪先はすっかり均一に染まっていた。表面がつやつやして、天井から降る光を何倍にも増幅しているみたいだった。
「それからどうなるの」
 マニキュアの蓋をくるくると閉める芽衣子の指先は器用に空気以外を触れさせない。実家にいる頃、ふたつ下の妹がマニキュアを塗るとすぐによれさせて騒いでいた記憶があるけれど、芽衣子の指先はいつだって完璧だった。
「ないよ。大体いつもここで終わり」
「オチはないの?」
「夢なんだから」
「えーつまんないね」
 芽衣子が口をへの字に曲げて、僕が眉毛でハの字を作る。芽衣子のほうが先に表情を崩し、ふたりで途切れるまで笑う。
「そういう夢を時々見るんだ。いつも同じ隠れ家みたいな博物館で、おじさんは大抵クジラについて喋ってる。どうして幻とまで言われる鯨の骨をおじさんが持ってるのとか、そもそも夢の標本って何なのかとか、どんなおかしなことがあっても、その場では絶対に質問にならないんだ。おかしいよな、夢だからかな」
 薄茶色のクッションにもたれかかると、芽衣子はまるで犬が服従を示すみたいに両手を軽く挙げたまま身体を投げ出した。まだぬかるんだ薄桃色が透明に光っている。
「どのくらいで乾くものなの」
「まだしばらくかかるよ」
「綺麗な色だね」
「そうかな」
 返事をする芽衣子のまぶたが半分閉じかけていて、つられてぼくも彼女の横に寝そべる。芽衣子は静かに左手をぼくの腹の上に置きながら
「あーあ、明日も仕事だ」
とひとりごちた。

 佐藤さんは独立してどれくらいなんですか、と聞かれて、咄嗟に正確な数字が出てこなかった。二年くらい、と答えてから、本当は三年をとっくに過ぎていたことを思い出したけれど、わざわざ訂正するようなことでもないとそのまま別れた。帰り電車に揺られる頃には、家を出るときに買って帰ろうと考えていた消耗品がなんだったのかということで頭が一杯になっていた。
 思い切りがいい性格ではなかった。在宅の仕事に変えようと決めた折にも、それなりに悩みはした。元々は都内から若干外れたところにある小さな会社で、金属加工を行う工場の事務所に勤めていた。そこでは文字通り金切り声のような機械の音が四六時中鳴っていて、それを聞きながらPCと向かい合い続けた。入社一年目で業務上以外の会話を諦めたぼくには、事務所が無音じゃないことがむしろ救いですらあった。数年勤めた末、ぼくは会社を辞めた。
 会社勤めをしていた頃に比べて預金は減ったけれど、毎月の報酬は二年かけてはじめて以前の収入を上回った。苦労も多いが、満員電車での通勤や継続的に人と関わることが苦痛な自分にとってこれ以上の贅沢はなかった。
 打ち合わせから帰ってくると、芽衣子の姿はまだなかった。一度帰ってきてでかけたような気配もない。先週末に休日出勤した分、今日半休が取れるかもと言っていたが無理だったのだろう。
 テレビをつけると、緑色の壁と目を閉じたくなるような青。球場が映し出されていた。アルプススタンドいっぱいに立ち並ぶ白い制服、鮮やかな黄色いメガホン。吹奏楽の賑やかな音がスピーカーから溢れ出す。それを眺めながらパソコンを立ち上る。アイスコーヒーを作ろうと思ったけれど、冷凍庫を開けると氷がひとつもなかった。
『仙台育英勝ってるよ』
 仕事を始める前に芽衣子にメッセージを送った。プロ野球にも高校野球にも明るくないぼくでも、甲子園の常連である仙台育英学園高等学校の名前くらいは知っている。芽衣子も野球に対する熱意はぼくと大して変わらないけれど、仙台育英のプレーが流れているときだけは絶対にテレビを消さなかったし、今日の決勝戦の時間を調べていることも知っていた。仙台育英のある宮城県仙台市は、芽衣子の生まれ故郷なのだ。
 故郷って言っても、三歳くらいまでしか住んでいないけどね。芽衣子はなぜか申し訳なさそうに言った。母親が亡くなって、父親の仕事の関係で別の地方に移って二人暮らしをしていたらしい。遠州灘を臨む湖西市にいた母方のおばあちゃんが時々様子を見に来てくれるのが、少し気まずかったけど嬉しかった、と芽衣子は笑った。
 しばらく仕事に集中したあと、携帯を見ると芽衣子から返信が入っていた。
「今日こそは帰ったら扇風機の掃除をしよう」
 彼女からの返信にはいつも脈絡がなくて、ぼくと芽衣子のそれぞれが個々に要件を送り合っている、という形になる。余計なことは言わないけれど、余計な話は積極的にすべき、というのは、ぼくらが付き合い始めて間もない頃に彼女が言った台詞だった。まるでそれを形にするみたいに、彼女は今朝の占いの結果やお昼にお弁当を買った専門店のこと、休憩に入ったカフェの隣の席にいた女子高生の彼氏の名前に至るまで、様々な瑣末事をメッセージで飛ばしてきた。今はもうそれほど細かな報告をする必要はなくなったけれど、不意に思いついたことや考えたことが、ぽつぽつと通り雨のようにぼくに降り掛かった。
 扇風機の掃除だって、一緒に住み始めた頃にした冗談みたいな口約束だ。冬にふたりでひとつの部屋を借りて、そんなことすっかり失念していた一年目の夏、ぼくはピカピカに磨いて風切り音が静かになった扇風機の前で芽衣子に叱られていた。仕事が忙しい芽衣子を喜ばせたくてやったことだったのに、どうしてひとりでやっちゃうの、などと言われてはさすがに気がささくれ立つ。それが一緒に暮らしはじめて最初の喧嘩だった。
 扇風機、夏になる前に掃除しなくちゃね。ぼくが羽を拭くよ。じゃああたしがカバーの埃をはたくね、なんて。あんな口約束、律儀に守らなくてもいいのに。言い出しっぺのぼくはなんだか申し訳なくなって、変な顔をした猫のスタンプを芽衣子に送った。

 思えば彼女とした約束事は多い。家事の分担やお金の管理など居住に関することはもちろん、いつか犬を飼おう、というのもそのひとつだ。
 僕も芽衣子も、犬を飼ったことがない。芽衣子に関しては祭りで取った金魚や、小学生のとき近所の男の子に取ってもらったクワガタくらいしか世話をしたことがないという。かくいう僕だって、生き物は妹が誕生日にねだって買ってもらったハムスターくらいしか経験がない。心配事は挙げればキリがないけれど、ふたりとも「生涯に一度くらいは」と思っていたところで一致した。
 引っ越しの荷ほどきもそこそこに、近所の本屋で犬の飼い方に関する本を買って読んだ。ぼくも芽衣子も知識が漠然としすぎて使い物にならず、ネットの海で学ぶには意見が多種多様すぎた。それなら本を一冊読んでしまったほうがいい、という学生時代の参考書と同じ結論に至ったのだ。
 子犬が社会に馴染めるかどうかは生後半年ほどで決まることも、人間と同じように目や耳が老いてゆくことも、ぼくらはちっとも知らなかった。人が老いることにさえ目を背けたくなるのに、犬が老いることになど考えが及ぶはずもなかった。戦々恐々としながらも、しかし飼うのをよそうとは互いに言わなかった。
 飼育用具の下見をし、家に迎え入れられるように整えるまでにそれほど時間はかからなかったが、肝心の犬探しが難航した。それまでに彼女の繁忙期が三度終わった。そのうちに犬を飼うなんて話すらなくなるのではないかと思ったが、芽衣子は決して忘れたりしなかった。
 しかし彼女の仕事が忙しいのも確かだった。外資系の商社に勤めていて、残業も多ければ出張は月に平均して二回ほど。その出張も予定通りに終わらないことがザラで、金曜日には帰れるはずだったのが日曜日の朝起きてみると隣で芽衣子が泥のように眠っていたことが何度となくある。賢明な人だから、ひとり暮らしなら絶対に生き物なんて飼わなかっただろうが、その点は在宅仕事のぼくがカバーするということで話がまとまった。芽衣子は「本当に大丈夫なの」と半信半疑ながら嬉しそうだった。
 いつになるかは分からなくても、いずれはきっと飼う。それがぼくたちのささやかな約束だ。

 仕事が一段落して、気分転換にベランダに出る。夕暮れ時の街にだんだんと影が広がり、一日が終わっていく。ぼくは胸ポケットを触る。煙草はちょうど二年ほど前に辞めたけれど、こういう時だけは無性に恋しくなる。
 しばらくベランダの手摺にもたれて休憩していると、隣の家のおばさんが顔を出した。ぼくが軽く会釈をすると、彼女は突然なにかを心得たような顔になる。
「奥さん、今日も遅いんでしょう?」
「そうみたいですね」
「駄目よ、そういうことはちゃんと言わなきゃ。女は仕事ばかりしてないで夫の世話くらいしろって」
「いや、うちはそういうのじゃないんで、」
「そうは言ってもね、本当は嫌でしょう。なんならあたしから言ってあげてもいいんだけどね」
 そんなのは余計なお世話だ、というのを飲み込んで、ぼくは愛想笑いを決め込む。おばさんは一通り言いたいことだけ言い終えると、満足そうに表の通りの勝手口から出ていく。右腕に提げた買い物袋は最近よく見かけるナイロン製のものではなく、おそらく何年も前に手作りしたような布製のパッチワーク。芽衣子がそれをぶら下げて買い物に行く姿を想像してちょっとだけ気分が晴れる。
 相手にしたら駄目だよ。そういうのはね、言わせておけばいいの。
 芽衣子が洗濯物を畳みながら言った。あれは同棲をはじめて間もない頃だ。
 いつも仕事で遅くに帰る芽衣子と、いつも家にいてだらしない格好のぼく。世間一般から見れば、やはりまだ大多数の理解を得られる形ではないのだと実感する。男は外で、女は家で、家庭を作り、子供を育て、老後に備えよ。なんて、そもそもぼくたちはまだ結婚していない。
 たとえ結婚していたとしても、と考えを巡らせてみる。ぼくたちの関係なんて、ぼくたちさえわかっていればいいのだ。あとは犬。これから迎え入れる彼、もしくは彼女さえわかってくれていれば。
 先日の台風で排水溝にこびりついた泥をほうきで軽く掃き出してから、ふたり分の夕食の準備を始めた。

 独立しようと思ったのは、父の影響だった。父は大手建機メーカーのエリアマネージャーをしていた。大手企業の傘下とはいえ、規模が大きくなれば自然と売上にも運営方針にもバラつきが出てくる。混成的になりがちな枝葉を調整するマネージャーの役割は、常に重箱の角を突かれ続けるような仕事ばかりだ。やりたがる人など多くはないし、ましてや実際にこなせる人はさらに少ないはずだが、父はそれができる人だった。小学生の頃、父の部下がたびたび家に遊びに来て『お父さんはすごい人なんだよ』とぼくの頭を撫でた。そういうことが幾度もあったのだから、決してお世辞ばかりということでもなかったのだろう。
 しかしその一方で、父について思い出すことといえば、真夜中に起き出したときに聞こえてくるすすり泣く声だ。トイレに行こうと二階の子供部屋を出ると、それは聞こえてきた。同時に母の励ますような声も。むせぶような呼吸の音は、なにを訴えているのかはわかりもしない癖に苦痛だけは切々と伝えた。
 そもそも父は、心底自分に自信のない人だった。あんなにお父さんを褒める人がたくさんいるのに、どうして自慢もせず、あんなにぺこぺこしているんだろう。幼少期のぼくの疑問は、中学に上がる頃には自然とわかってきた。父は謙遜しているのではなく、自己を肯定するという機能が根本的に備わっていないのだ。どれほど仕事ができても、部下に慕われようと、エリアの売上が安定しようと、自己を肯定しない者にとってはどれも価値はない。まだ十四、五のぼくに「こんなこと、おれにはできっこないんだ」と愚痴をこぼすようになったとき、それまで感じていた違和感のようなものがさらさらと溶けてなくなった。この人はもともとこういう人なのだ。そして、その父に似たぼくもまた同じなのだと。
 それがわかってもなお、日々が楽になるまでにはそれなりに時間がかかった。学校とは他人からの期待、羨望、嫉妬を寄せ集めて固めたようなものだ。ただ呼吸しているだけでも、ほんの小さなことをきっかけにクラスメイトの噂の的になり、鬱憤のはけ口になり、時には憐れまれたりする。特に勉強や運動はできてもできなくても駄目だ。一度勇気を出してなにも書かずにテストの答案用紙を提出したら、ものの見事に大騒ぎになった。隣のクラスのやつがすれ違いざまに「かまってちゃんじゃん」と肩をぶつけてくる。その足でもう二度としない、と当時の教科担任に言いに行った。小言も形だけの心配も耳には入らなかったけれど、そのときの先生のほっとした顔だけは覚えている。
 やがて就職し、社会に出たことであのときの感覚が間違いではなかったことを悟り、ぼくはひとりで仕事をするようになった。もちろん仕事を選べるような立場ではなかったが、ただの取引先なのに上司のような顔をし始める担当者とは意識的に距離を置いた。彼らは自分たちさえ仕事を切ればぼくたちが路頭に迷うと思っているけれど、はじめからそういう会社からもらう対価など当てにはしていない。個人事業主の強みは自由に仕事ができることだけではないのだ。



 家のリビングでPCに向かっていると、芽衣子が帰ってきた。ただいま、という声はいつも通りでも、目の周りがうっすら浅黒くなっている。一回も化粧直ししないとパンダになるんだよ、両手の親指と人差指で作った丸を目の縁に当てながら教えてくれたのはいつだっただろうか。今夜の彼女にそんな余裕はありそうになかった。
「今日は夕飯まだなんだ」
 ぼくが言うと芽衣子は責めるでも、おどけて一緒に作ろうと言うのでもなく、返事にならない返事をした。なにかを言いあぐねているのがわかった。相談なんだけど、とようやく口を開く。嫌な予感がする。
「ごめん、来週末の予定ってずらせないかな」
「週末ってうちの実家に来るやつだよね」
 芽衣子が小さくうなずく。そのままうつむいたまつげにいつもなら絆されるのに、その日に限ってぼくにもそんな余裕はありそうになかった。
 納品まで終わったはずの会社と突然、連絡が取れなくなった。直近まで連絡を取っていた担当者のメールアドレスはもちろん、会社の代表メールも、電話もすべて空振り。大きな会社ではなかったが、何度か取引していて不安に思うようなこともなかったから油断していた。
 焦ったぼくは同業の知り合いや、事情を知っていそうな人に片っ端から連絡を取った。段々と詳細がわかりはじめたが、予想した通り最悪の結果でしかなくて調べるのを辞めた。代わりに先日送った請求書をPCから引っ張り出して見る。ここ二ヶ月間かかりきりだっただけに額が大きい。なにも言葉が出なかった。
 ソファの横に置いた芽衣子の鞄が倒れる。彼女は「ごめん」と小さく謝ってそれを起こした。
「もう二回も日付変えてるよね」
「うん」
「また仕事の予定?」
「うん」
「休日出勤?」
「…前日に出張が入っちゃって」
「泊まりの予定なの」
「日帰りだけど、念のため宿も取ってるから、たぶん」
 そこで言い淀んだ芽衣子に思わずため息が漏れた。無意識だったが、心の余裕がなければこんなものだ。
 もともとぼくの実家に行く予定が土曜日だった。ということは金曜日から出張。今までの様子からして、土曜日の昼には間に合わない可能性が高いのだろう。事実、帰宅の予定を大きくはみ出し、日をまたぐことが何度もあった。芽衣子もそれを悟って相談を持ちかけてきたのだ。
 立ったままの芽衣子を見ると、髪と肌が薄っすら濡れていた。夜中から雨の予報だったのが、思ったよりも早く降り出したらしい。芽衣子の肌は透き通るように白く、首筋にかかる湿った髪の毛が嫌に艶っぽい。彼女のそういう部分をぼくは久しぶりに見た気がした。
「最近帰りも遅いし、出張も休日まで長引くことが多いよね」
「うん、だからごめん」
 芽衣子は半ば振り切るような語気で返事をした。謝られたら、それ以上なにも言えないことくらいわかっているはずなのに。
 もうしばらくの間、芽衣子と一緒にご飯はおろか、同じ時間に寝付くことすらない。当然触れることもない。むしろ彼女自身がそれを避けているのではないかという気さえしてくる。
 芽衣子はもう一度謝ってから「極力早く帰れるようにはする」と言って部屋を出ていった。箪笥代わりのカラーボックスを並べた寝室へ入っていったあと、脱衣所のほうで物音がした。
 僕は以前取引のあったところに何件かメールを出し、最後には半ば諦めた気持ちでPCの電源を落とした。薄いカーペットの上に寝転がると、目が疲れていたのか動くはずのない白い天井の模様がうじゃうじゃと波打って見えた。
 ぼくが悪かったのだろうか。あそこで、優しく「気にしないで」と言えたら良かったのだろうか。考えても思考は極端なほうにしか傾かず、遠くで聞こえるシャワーの音で我に返る。
 芽衣子はまだ出てこない。彼女にとって入浴は日々の憩いらしく、一時間くらいこもる日も珍しくはなかった。ぼくもそれを知っているから極力浴室周りには近づかないようにしていた。どんなに親密な仲であっても踏み込むべきでない場所というのはあるし、かくいうぼくも同じようなタイプの人間だった。集団行動にはいつでも息が詰まった。他人と長時間一緒にいることができない。疲れる、とか、気詰まりだ、というよりは不可能というニュアンスに近い。当然、人から理解を得られることは少なかったけれど、自営業になってからはそういう人にも時々出会うから救われる。
 ぼくは胡座をかいていた足を伸ばし、ゆっくりと立ち上がった。意図せず芽衣子が入浴中の廊下を歩くような静かな動作になる。そういう仕草が身体に染み付いている。きっと彼女もそうだろう。ぼくが彼女を気遣って近づかないと思っている。信頼ゆえの無防備が頭の中でささくれ立つ。
 膝やふくらはぎを丁寧に伸ばしてから、足音を立てないように進む。マメな性格の芽衣子のお陰でリビング以外の電気はきちんと消えており、廊下は薄暗く玄関は闇に黒ずんでいた。擦るような足音のあとをぼんやりとした影がついてくる。なぜか誰かに追いかけられているような気になったが、構わずに進んだ。シャワーの水流がタイルを叩く音が反響している。
 仕事が忙しいせいもあるのだろうが、芽衣子は基本的に携帯を手放さない。リビングで寛いでいるときや寝室で休む際も、きちんと置き場所を決めている。そこにないと気づくとすぐに探し始める。もちろん入浴中も持ち込んでいるが、シャワーのときはさすがに浴室に置いておくわけにはいかない。
 気がつくと、静かにスライドドアのへこみに手をかけていた。ここを開ければその先には、ぼくの知らない芽衣子がいる。まだシャワーの音は鳴り止まない。今しかなかった。
 段々と暗さに慣れてきた目で想像する。芽衣子の細い腰にくっきりとついた跡。あまり大きく声を上げない彼女の目の端には涙がにじむ。唇に触ると無意識に食いしばっていた強張りがほどける。ぼくの知っている芽衣子。それが本当の彼女なのかどうか。
 脱衣所の光が細く廊下を割く。眩しさは感じないが代わりに刺さるような違和感があった。本当の彼女って、なんだよ。
 ぼくは慌ててわずかに開いた扉から手を離した。少ししか開いていなかったからか、ほとんど音も立てずに光は吸い込まれるように消えた。それよりも数秒遅いかというタイミングでシャワーの音が止んだ。
 信じる、という言葉は便利だ。釘打ちにも紙面のない契約書にもなる。裏切っても死なないが、どこしらはきっと腐り落ちるだろう。
 リビングに戻ると、部屋の隅に段ボール箱が積んである。片付け魔なところのある芽衣子から唯一そこに置くことを許されたのは、すべてまだ飼ってもいない犬のための飼育道具だ。ぼくは途端になにを信じたらいいのかわからなくなる。こんなことははじめてだった。はじめて。いや、本当にそうだろうか。
 芽衣子と付き合ってから、今年の春で五年を迎えたはずだった。薄情だと言われることも多いが、ぼくらの間には記念日というものがない。わざわざ特定の日を特別視する必要もないだろうというのがぼくと芽衣子の総意だった。平坦な日常の中でそれなりにぶつかったこともあったけれど、こんな風に相手を巧妙に避けるような距離感ははじめてのはずだった。
 なのに彼女のあの顔を、あの冷めた目元の暗さに覚えがあった。あれはいったい、いつのことだったのだろうか。
 そのうち廊下のほうからカラカラと音がした。磨りガラスの向こうにモザイクがかかった芽衣子の姿が浮かぶ。ぼくはリビングの真ん中に突っ立ったままそれを眺めた。輪郭がなくても細身だとわかるシルエットに、また少し痩せたかな、と思う。彼女はなかなか入ってこない。
 それどころか、モザイクは段々と不鮮明になって闇が滲んでいく。まさか出て行こうとしているんじゃないだろうか。あのときも、彼女はそうやって消えたんじゃなかっただろうか。
 動悸がするのに、ひどく手が冷たかった。あのとき、を思い出そうとするたびに頭のなかが無理やり引きずれ出されるみたいな感覚に陥る。早く芽衣子を追いかけなくては。そう思うほどに身体が引き攣れ、激痛が走る。痛くてどうにかなりそうだった。両手でかきむしるように髪や顔、首筋を擦る。どうにもならない。カチャ、と玄関で鳴っているはずの錠を開ける音が、なぜかすぐそばで聞こえた。

 来週までの納期の仕事が一段落して振り返ると、芽衣子がソファの肘掛けにもたれるように座っていた。一見リラックスして見えるけど、身体の節々が縮こまっていて窮屈そうだった。なにか心配事でもあるのかもしれないな、と思いながらぼくも床に座ったままソファにもたれた。
「常同障害って聞いたことある?」
「なあに、それ」
 つけっぱなしのテレビからサイレンの音が聞こえる。目を遣ると、広いグラウンドと青とオレンジにグレーをまぶしたような空が映し出されていた。土岐科、と書かれた背中がとても小さかった。もうすぐ夏が終わる、と唐突に実感する。
 まどろんだような芽衣子の声は、やはりどこか緊張しているように聞こえた。彼女の性格上、なにか気にかかることがあると休日であっても芯から落ち着くのは難しいのかもしれない。土曜日と日曜日のたった二日間しかない休みくらい何もかも忘れてゆっくりすればいいのに、と思うけれど口には出さなかった。
「犬とか猫がなるやつで、人間で言うところの強迫性障害みたいなものなんだって。まったく無意味な行動を繰り返して、最終的には日常生活に支障をきたすらしい」
「猫がグルーミングしすぎて禿げちゃうみたいなのとか?」
「うん、あとは子犬とかがよくやる尻尾追いかけるやつ。あれもいき過ぎると尻尾の毛をぶちぶち抜いてしまったり、酷いと噛みちぎっちゃったりするんだって」
「それ怖いね。でもペット動画とかでよく見かけるよね」
「そうなんだよね。子犬の間はある程度は仕方がないこともあるし、人間だってたとえ無意味でもやると落ち着く行動ってあるでしょ。髪を触ったり腕を組んだり。犬も同じで、身体のどこかを舐めると緊張がほぐれる効果もあるんだって。これを転位行動という」
「ふむ、それでは厳密に見分けるのは難しいんじゃないのかね」
「いかにも。獣医でも判断に困る場合があるというくらいだからな、ってなにその喋り方。それで、結局その犬にとって本当に必要なことがなんなのか、わかるのはずっと一緒にいる飼い主だけなのかもしれないって話なんだよ」
 コーヒー飲む、と聞くと芽衣子は首を振った。ひとり分のために湯を沸かすのが億劫になって、ぼくは床に座り込んだまま手元の携帯を見た。今日は金曜日だ、近所のスーパーで卵が安い。
「買い物にでも行く?」
「行かない」
 芽衣子はどこか空を睨んだまま言った。そういえばさっきから、彼女と目が合っていない気がする。
「じゃあぼく行ってくるよ」
「いいよ。一日くらい食べなくたって死なないんだし」
「そんな横暴なこと」
 冗談かと思ったが、彼女は少しも笑っていなかった。芽衣子に神妙な顔をされると、つられてぼくも黙る。今日はなにかあっただろうか、と朝からの彼女との会話を思い出そうとしたが、少しも思い出せなかった。ほんの、少しも。
「ねえ、芽衣子」
「なあに」
「今日は有給でもとったの」
「どうして」
「だって今日は金曜日だ」
 出張は、と聞くとようやく彼女の目がぼくに向いた。芽衣子の目は茶色味がかった色素の薄い色をしているはずだったのに、今日はやけに黒々として見えた。まるで子供が黒色のクレヨンでぐるぐると掻き回したみたいだ。ぼくがソファから背中を離すと、彼女はわかっていたみたいに先に顔を背けていた。
「出張って嘘だったの」
「嘘じゃない」
 彼女が子供みたいに大きく首を振る。普段はこんなに持って回った言い方を好むひとではないのに、と思っていると、芽衣子はソファからだらりと垂らしていた両足を抱え込み、その間に顔を埋めた。泣いているみたいな仕草にぼくのほうが戸惑ってしまう。
「どうしたの、教えてよ」
 ぼくが体重をかけるとソファがたわみ、その歪みに彼女の身体がぐらりと傾く。まるで体重が十分の一くらいになってしまったみたいに、いとも簡単に横たわった顔についている眼はやはり黒く重かった。ほんの一瞬だけ、その顔にぞっとする。
「ねえ、なにもおかしいと思わないの」
 表情を取り繕わない芽衣子の顔は目の下のクマが目立つ。落ち窪んだ青い眼下が、より一層彼女から生気らしい血色を奪っていた。
 そもそも、これは本当に芽衣子なのだろうか。
 彼女は浅黒くくすんだ顔に赤い舌をちらつかせながら喋る。
「仕事の予定がそんなに頻繁に伸びるわけないじゃん。もうわかってるんでしょ。優しさで知らないふりしてくれてるの、それとも私に興味なくなったの」
「そんなわけないよ」
 そんなわけはないけれど、彼女の言葉に隠されたなにかがあることもまたわかっていた。しかしそれがぼくに対してなのか、自分自身にか、それともまったく別の、鋭利な留め金のようなものに対してなのかはわからない。
 黙って芽衣子を見つめていると不意に目を逸らしたくなる。自分がわからない振りをしているだけのような気さえしてくる。
「知っているなら教えてよ。思い出せないんだよ、なんにも」
「変なの、まるで記憶喪失だね」
 無理もないか、とひとり納得したようにつぶやく彼女の口元が歪んでいる。
 「ねえ」と突然芽衣子が甘えた声を出した。
「『新幹線が止まって帰れなくなった』って言った私に、あなたはなんて言った?」
「『台風が来てるわけでもないのに運休になるの』」
 するりと出てきた言葉に自分で驚く。芽衣子が一瞬だけニンマリと笑ったように見えた。暴かれる、というよりは再生に近い感覚。
「『ごめん、上司に言われてどうしても断れなくて』」
「『頼まれてってなに、本当に仕事なの』」
「『仕事だよ』」
「『上司と寝るのが仕事ってどんな慈善事業?』」
 テレビからサイレンが聞こえてくる。舐めるように上下する音が夏の終わりを告げ、そして永遠に鳴り止まない。
 ぼくはぼくの口から出た言葉に戦慄した。
 なにを言っているんだ、ぼくは。いや、知っているはずだ、彼女と彼女の上司のあいだで交わされた行為も、会話も。すべて見たはずだった。彼女がどんなことを強要され、それに応えてきたのかも。相手の男が芽衣子の携帯のカメラロールに自分との情事の写真を何百枚と入れさせて興奮しているようなやつだってことも。すべて芽衣子の携帯のなかで見たのだから。
「わかったでしょ。もう二回目だもんね」
 なぜか頭の中で隣の家のおばさんの台詞が繰り返される。「奥さん、今日も遅いの」「奥さん、休みの日も仕事なの」「奥さん、男でもいるんじゃないの」。ぼくは拳を握ってにこやかにベランダの窓を閉める。
 芽衣子がシャワーを浴びたあと、部屋を出て行ったのはぼくのほうだ。暗い階段を降りて出た夜は途方もなく澱んでいた。ふらふらとおぼつかない足元。歩道と車道の間を迷惑に歩く。後方からのフラッシュ。クラクションの音は最後までしなかったと思うけれど、本当のところを知る術がもうぼくにはない。
「ここはどこなの」
 尋ねると、虚ろな目をした芽衣子が視線を外したまま小さく首を振った。
「わかんない。でも、あなたがいた」
 芽衣子が両手で顔を覆う。
「幸せだと思ったのに」
 骨と皮ばかりの両手の間から見えたまぶたがきつく閉じられていた。
 偽物は、ぼくかもしれなかった。

【後編】

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