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ロビンソンの飼い犬【後編】

【前編】


 足の甲にできた擦り傷を見つけ、指で撫でる。ここのところ暑くて、外出にはいつもサンダルを履いていたから。絆創膏を取り出してきて貼ったけれど、カーブした皮膚にはいまいち張り付きがよくない。
「なあに、これ」
 芽衣子がリビングから顔を出す。手には角が汚れた発泡スチロールが抱えられていた。
「知り合いからもらったんだ」
「お中元?」
「釣り好きなんだ」
 あとでどうにかするよ、と苦笑いする。芽衣子はふうん、と言いながらフタを開ける。紫色のうねった肢体が半分凍った姿で入っていた。蛸だ。こぶし大ほどの頭が縦に伸び切っていた。
 会社勤めを辞めたばかりの頃に世話になった人が送ってきたのだ。年がら年中ビーチサンダルに開襟シャツを着流し、海にも山にも現地の人間並みに詳しい。いつ仕事をしているのかと思うけれど、その実大小複数の会社を経営しているというのだから世の中はぼくらの知らない理屈で回っているのだとつくづく思う。
「まだ内臓入ってるみたいだけど」
「捌いたことないって言ったら、じゃあ一回くらいやってみろって」
 無茶を言う、と思いつつ受け取った発泡スチロールがやけに重かった。髭面がおかしそうに笑っていた。
「私、やってみたい」
「え、捌けるの?」
「できないけど、このままってわけにもいかないし」
 いそいそとキッチンに消えた芽衣子を追って立ち上がる。料理はぼくも芽衣子もそれなりにするけれど、魚はもっぱら切り身だし、ましてや蛸なんて刺し身くらいでしか買わない。内蔵、と考えただけで正直気が進まなかった。
 キッチンに入ると、洗い物の終わったシンクに大ぶりのボールを置き、そのなかに蛸を移したところだった。水洗いし、汚れとぬめりを取ります。蛇口から離したところに置いた携帯から手順を説明する声が流れていた。
 芽衣子の横に立ち、彼女の手元を覗く。吸盤が細い指に絡み付きながら、八本の足が水の中でうねうねと揺蕩っていた。既視感、と反射的に思う。まだ十代だった頃、一番仲が良いと思っていた友人から無視されたときや、父親が三ヶ月前に仕事を辞めていたと発覚した夜に感じた、あのやるせなさを可視化したみたいだった。
 芽衣子は無心で蛸の足のなかで手を動かしている。僕は話題を探す。
「生き物の内臓とかって、案外女の人の方が平気だったりするよね」
「それはそうでしょ。だって、」
 芽衣子が言葉を止めた。途端にぐにゃぐにゃと彼女の身体が折れ曲がる。蛸の足は絡みついたまま、それどころか腕から腋へ、腹から足へと広がっていく。
 めまいがした。
「ね、まな板出して」
 ぼくは言われた通りにシンクの下の物入れからまな板と包丁を取り出した。芽衣子の身体はすっかり元通りに戻っていた。
 蛸をそっと取り出し、水が滴り落ちなくなるのを十分に待ってからまな板の上に乗せる。その緩慢な動作をぼうっと見つめていると、ぼくはなぜか急に堪らなくなった。
「やっぱりぼくがやるから」
 包丁を持とうとした右手を強く掴む。痛かったかな、ごめん。
 リビングのテレビがつけっぱなしで、賑やかな歓声と野球特有のくせのある実況が聞こえてくる。
「そういえば醤油、切らしてたんだった。悪いけど、買ってきてくれないかな」
「ええ、外まだ暑いよ」
「ごめんて、でもせっかくならタコ飯とか作りたくない?」
「作りたくない。けど食べたい」
 そう唇を尖らせると、芽衣子はぼくの返事を待たずにキッチンを出ていった。ぼくはまな板にへばりついた蛸を眺めながら、彼女が玄関の鍵を開けるのをじっと待つ。ばたん、と音がするまで三分ほど、なにかを祈るみたいに。
 大きく息を吸うと、冷房の効きづらい部屋の湿気た空気が肺に充満した。意を決して包丁を握れば、蛸は案外あっけなかった。頭を裏返して内蔵を除き、くちばしをむしる。くちばしは発達した硬い筋肉の真ん中にあり、何度も包丁を入れたせいで身が削れてしまったが、取り出してみれば黒くてペラペラのプラスチックみたいなものが残っただけだった。動画通りとはゆかないけれど、ぶつ切りになった身体からはもう生命の匂いがしない。
 背中に汗が伝うのを感じながらキッチンを出て、窓を開ける。予想通り、隣の家のおばさんが顔を出す。
「奥さん、また仕事でしょう」
 おばさんはニンマリと口を横に広げていた。そうかもしれない、とぼくが心の奥底で思うと、突然携帯が鳴った。芽衣子からのメッセージ。「ごめん、上司に呼ばれた」。
「駄目よ、そういうことはちゃんと言わなきゃ。女は仕事ばかりしてないで夫の世話くらいしろって」
「いや、うちはそういうのじゃないんで、」
「そうは言ってもね、本当は嫌でしょう。なんならあたしから言ってあげてもいいんだけどね」
 おばさんの顔は西陽に翳り、ほとんど影の色をしていた。口だけがべろりと裂けて赤い。ぼくは一歩後ずさる。
「浮気だったら、あなた許せる?」
 そんなこと聞かれたはずはないのに、言葉が耳の中を反響する。いつまでもいつまでも鳴り止まず。
 今がいつで、ここがどこで、明日に向かっているのか、過去に帰っているのかもわからなかった。漂っている、と強く意識する。


 芽衣子のおばあさんに二度会ったことがある。
 一度目は彼女の帰省についてこないかと誘われて遊びに行った時のことだ。芽衣子はおばあさんのことを「さゆりさん」と名前で呼んでいた。どうしてかと聞いてみると、小さい頃からそうだから、と困ったような顔をした。
 さゆりさんは東京から新幹線で二時間くらいのところにひとりで暮らしていた。まだ芽衣子が生まれる前に夫を亡くし、もう何十年もひとり暮らしだという。それだけ聞くと寂しそうな印象を受けるが、実際のさゆりさんは古いけれど丁寧に手入れされた洋風の家に住んでいた。二階のアールヌーボー様式のバルコニーが自慢で、昼食はそこにテーブルとクロスを引いてご馳走になった。他にもこじんまりとした庭には季節の花が咲く花壇があり、リビングのチェストの上には小さな置物や写真が所狭しと置いてあるのに埃一つ見当たらない。大切にしていることがひしひしと伝わってくるような家だった。
 部屋の隅々を抜ける穏やかで風通しのよい空気は、はじめて尋ねてきたぼくでさえ居心地が良かった。芽衣子はさらにリラックスして機嫌よく見えた。
 ぼくがさゆりさんと話をしているうちに、いつの間にか彼女は二階に上がっていた。バルコニーにつながる部屋の隅に置かれたロッキングチェアに揺られ、まぶたは閉じている。まるで夢見心地というようなうっとりとした表情に日差しがさす。半分開けられたままの窓からは時々風が吹き込んだ。
 行儀が悪いことを承知で、ぼくは椅子の下に敷かれた緑色のカーペットに寝そべった。日に焼けて褪せた色のナイロンの毛が頬を軽く刺激する。その感触は小さい頃に父親の手が触れたときとよく似ていた。
 ぼくは首を傾けて芽衣子を見上げた。派手でも機能的でもない古いチェアはところどころささくれていて、しかしそんなことは気にならないくらいに纏う空気が美しかった。ぼくはなんだか犬になったような気分で、天井とバルコニーと芽衣子を見つめたまま眠った。
 ふと目を開けると、部屋の輪郭が常夜灯のあかりでふんわりと照らし出されていた。あたりは暗く、空気が暖かいなと思ったらバルコニーの窓が閉じられていた。ロッキングチェアで眠っていた芽衣子も今はいない。腰のあたりに掛けられていたブランケットが自分の体温で温かい。
 ぼくはブランケットを折り畳んで小脇に抱え、一階に降りた。キッチンにいたさゆりさんが「よく眠っていたわね」と身体を半分だけ振り返って言う。芽衣子は、と聞くとお使いに出たところらしかった。何か手伝いますか、と訊ねても座っていてちょうだいとしか言われず、ぼくは手持ち無沙汰にダイニングについた。
「私はね、芽衣子ちゃんと一緒に住むのが夢だったの。でも私にはなにもなかった。この家以外、なにも」
 背中を向けたまま彼女が言った。ぼくは「はい」とだけ答えて、それ以上はなにも言わなかった。なにも言えなかった。
 芽衣子の父親は、おそらく良い父親ではなかった。犯罪を犯しているだとか、職についていないだとかそういうことではなく、むしろ大手企業で要職につくほどの優秀で人望も厚い人だったと、芽衣子は言った。お陰で中高とエスカレーター式の私立校に通い、大学も希望するところへ入るために予備校に通わせてもらったという彼女の学歴は、確かにぼくなど足元にも及ばない。
 でも可愛がられていたのとは違う。そう言った芽衣子の目が泳いでいた。ぼくはそれからしばらく彼女の身体に触れることができなかった。ぼくが男で、それだけのことが彼女にとって負担になる。
「他人を所有するのってそんなに楽しいのかな。自分勝手に人を弄んで、言うこと聞かせて。でもいつもは普通の人なの。普通の顔してるの。それが私は怖かった」
 芽衣子が大学進学で家を出て二年目の春、父親は再婚した。一度だけ顔合わせのために食事をして、それきり最低限の連絡しかとっていない。時々お金の話や就職の話の合間に生活や身体の心配をされると死にたくなった、という彼女と出会った二十三の歳、もう芽衣子は父親とは絶縁状態だった。母方の祖母であるさゆりさんだけが唯一心を許せる親族だった。
 さゆりさんと二度目に会ったとき、彼女は病室のベッドにいた。呼吸はあるけれどもう意識がなかった。芽衣子はぼろぼろと涙を流したまま部屋の隅に佇んで動かない。顔を見てあげて、と見も知らぬ遠縁の親族が言っても彼女は立ち上がらない。
 ぼくはさゆりさんの側に寄って身をかがめた。彼女を上から見下ろすのがなぜかとても嫌だった。人工呼吸器を付けられたさゆりさんの顔は穏やかで、瞼にもどこかハリがあった。ただ眠っているだけのようで、それがかえって現実を受け入れられなくしている気さえした。
「あの子を守ってちょうだいね。あの子を、あの子が恐れているものすべてから」
 どうしてさゆりさんははじめて会ったぼくに、あんな大事なことを教えてくれたんだろうと思っていた。
 ずっと耐えてきた芽衣子にぼくが渡せるもの。今も耐えている芽衣子にぼくが渡せるもの。
 目を閉じると、夢の骨格標本の男が映った。お前たちの夢も標本にしてここに並べてやろうか。いじわるな笑い方だった。
「でも本当のところ、ここではなんだって実現できる。捨てたものも、無くしたものも、手に入らなかったものでもな」
 周囲にはいつの間にか、長年使っていたノートパソコンや煙草も吸わないのに一目惚れで買ったジッポライター、芽衣子とはじめてお揃いで買ったマグカップなど、ひとつひとつ丁寧にラベリングできるような品々ばかりが並んでいた。おじさんはそれらを目を細めて見渡したあと、どうだ、とぼくに顎で示す。数度瞬きを繰り返した目が薄っすらと濡れていた。
 ぼくが首を横に振ると、おじさんはなんとも言えない顔で頷いて、標本の海の中に消えていった。



 部屋の隅に彼女が座り込んでいる。それはちょうど足の爪を塗るような体勢だった。
 ぼくはソファから上半身だけを起こし、芽衣子に尋ねる。
「犬種はなにがいい」
 彼女は答えない。ぼくだけが勝手に話す。
「ポメラニアンとかシュナウザーとか小さい子も可愛いし、ゴールデンは足がしっかりしてて安心するよね。どんな犬種だっていいけど、できれば毛の長い子がいいな。ふわふわして暖かくて、君、冷え性だから添い寝したらきっとよく眠れるよ。あとはお留守番が得意なほうがいいね。ひとりにしちゃうことも多いだろうし、こっちの心配なんてどこ吹く風で元気でいられるような賢い子。でも君にはよく甘える子、なんて欲張りかな」
 部屋の隅に重ねられた段ボール箱は薄く埃を被っていたけれど、ぼくも芽衣子も片付けようとは言わなかった。ぼくはこの暮らしのそういうところが好きだった。
「でも、君が気に入ったならどんな子でもいいよ」
 芽衣子が顔を上げた。目が充血して赤黒い。
「私には無理だよ」
 低く唸るエアコンの音にかき消されそうな声だ。冷房が効きすぎている、と感じるけれど肌を擦ることができない。代わりにぼくは明るい声で言った。
「無理じゃないよ。ひとり暮らしで犬を飼っている人なんてたくさんいる」
「無理だって、できないよ。今だってどうしたらいいかわからないの」
「きっとわかるようになるときが来るから」
「そんなの来なくていい」
 芽衣子が声が、身体がだんだんとか細くなっていく。
「ふたりじゃなくちゃ意味がいない」
 部屋の中に夕暮れの光が差した。つけっぱなしのテレビからサイレンの音がなる。夏が来る予感はあんなにも心躍るのに、なぜか終わりのほうが何十倍も鮮やかだ。
 ぼくは立ち上がって芽衣子の隣に座った。柔らかい髪を梳くと、それは消えそうなほど儚くこぼれていった。指先の感覚がぼんやりしてきていた。
「いつもはじまりならいいの」
 芽衣子が言った。終わりがないならはじまりだってないよ、と屁理屈を言うと彼女がほんの少しだけ笑った。
「でもはじまりばっかりにするなら、ぼくは海のそばに住んでみたいし、ハワイでグリーンフラッシュを見てみたいな」
「あなたらしいね。私はどこでも良いけど、どうせなら関西に住みたいな。その土地の方言の中にいたら自分もそうなれるのか試してみたいし、スピッツのライブにも行ってみたい。それで空も飛べるはずを聞くの」
「いいね、行こうよ」
「でも、」
「でも、ね、ぼくたちははじまりと同じくらい、終わることだって愛せるはずなんだよ」
 そう言うと、彼女が鼻をすすりながらうなずいた。ティッシュは探しても見つからなくて、ぼくが服の裾を差し出すと芽衣子は一瞬迷って首を振った。
「いい、大丈夫」
 芽衣子がぼくの目を見た。どこかでひぐらしが鳴いていた。

 私が大きな段ボールをクローゼットにしまうのを見て、清香さんが怪訝そうな顔をした。
「それ、取っておくつもり?」
 彼女の綺麗な顔に皺が寄って、私は思わず笑ってしまった。家電ひとつで彼女にこんな表情をさせられるとは思わなかったのだ。私が知る限り彼女ほど聡明で美しく、断捨離が上手な女性はいない。これを機にすべて片付けてしまいたい、と言った私に、清香さんは快く力を貸してくれた。
 部屋を見渡すと、いらなくなったもののほとんどを玄関先にまとめたせいか酷くガランとしていた。部屋としての彩りや愛想がなくなって、代わりに実用性に似た無機質さが充満していた。
 手を貸してくれた彼女に礼を言うと、こちらに遠慮をさせないような華やかな笑顔で
「手伝ってほしいって言ってた割に物なんて全然なくて、むしろ拍子抜けよ。まさか人が来るからって片付けたわけじゃないよね」
「それならはじめから頼まないよ。でも自分ひとりじゃここまでできなかったと思う」
「そう? それならよかったけど」
 清香さんが後ろでひとつにまとめていた髪を解くと、ふわりと金木犀のような匂いがした。
「どうせなら全部一辺に捨ててしまったほうが楽だからね。何度も悲しい思いをする必要はないわ。芽衣子のことだから仕事辞めたって当面暮らせるくらいの貯金はあるんでしょう」
「多少はね」
「謙遜しなくていいわよ。無職で犬飼おうなんて最高じゃない」
「ありがとう。お迎えしたらまた遊びに来て」
 部屋の隅には、ほんの少し前まで段ボールに入れっぱなしになっていたものたちが綺麗に並べられていた。新たに買い足したものも多く、もとからリビングにあった家具の大部分を処分した。
「遠いんでしょ、引っ越し先。残念だわ、あなたのこと好きだったのに。距離感がわかっていて、話が合って」
「清香さんにそう言われることほど嬉しいことないよ」
「でも、ちょっと人に振り回されやすいところは切り替えたほうがいいわ」
「切り替える?」
「自分を生かしなさいって意味よ」
 そう笑って、お腹すいたわね、とこともなげにつぶやく。白いTシャツから出た首筋にうっすらと汗が浮かび、雑に髪をかき上げている。私こそ、という代わりに「近くに美味しい中華があるの」と言うと、彼女は少女のような笑みを浮かべて立ち上がった。
「ところで、それはやっぱり捨てないの」
 彼女が指さしたのは開けっ放しになっていたクローゼットだった。段ボール箱から扇風機の頭の部分がのぞき、購入したときについてきた不織布のカバーが掛けてあった。掛けなくたって、もうこれを動かすことはないのだけど。
「新しいの買ったんでしょ。そんな場所とるもの取って置かなくても」
「いいの。これは」
 清香さんが首を傾げる。
「変わってるわね、あなた」
「そうかな、普通だよ」
 丁寧に埃が除かれ、磨かれた羽の部分はプラスチックの艶が光っている。私は笑いながらクローゼットの扉を静かに閉めた。


《了》


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