写真家の恋人が、わたしのことを撮らない理由


ひどい顔をしていた。

鏡の前に立つ必要なんてない。今まで生きてきた中で何度も理解していたから。比べるものではないのかもしれない。花瓶に入った水を交換する時に、わたしは花の表情を見なくなっていた。皿に柄は、少しでいい。乗った心と向かい合えるよう、影になっている。窓枠を抱えてそのまま、わたしは昇るようにして、屋上から——


簡単なことだった。

「撮らないでください」とわたしが強く言っていたから。瑠璃のカーテン。小鳥を指先に止めるように。眠れない夜に走る自転車は錆び付いていてほしい。大切な人にしか教えたくない音楽がある。耳の奥で響く、砂嵐とミドリ。

「その瞳にわたしのことを閉じ込めておいて」なんて、それっぽいことを言っていたけれど、綺麗なものではない。万華鏡の覗き穴同士をくっつける。虹と赤色。落ちた口紅と、二杯目の珈琲は似たような味がする。


「書きたいことがわかりません」

エッセイストは、泣き疲れた顔でそう零す。どうせならちゃんと目の前で泣いておけばよかった。右瞼の痙攣からは、40デニールの透け感。眼鏡をかけてもすっぴんは誤魔化せない。白紙のカレンダーと真っ黒な煙草の液体。勝負下着ほど、肌が太くなっていく。


「明日の朝ごはんは、お休みしたいです」

大切な予定をひとつ、キャンセルした。

嫌われてしまうのが怖くて、顔が見れなかった。右頬を決まって撫でる、彼の唇に噛み付きたい。シャワーを浴びる恋人は、何を考えていただろう。何を、考えていたのだろう。



自分で決めたことに縛られている。

解いた瞬間、息が止まる魔法。冷やしておいたグラスに注ぐのは、言葉の貝殻。ここでエッセイを毎日書いて今日で、444日目。縁起を考えて、それだけで胸が痛む。「女の子」になりたかったから始めていた。今まで買ったワンピースはまだ数え切れる。映るのはいつだって「男」だったから。そんな当たり前のことに絶望したくないから、写真が苦手だった。

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日付が変わる直前になって、帰って来る。

「ただいま」

「…、」

挨拶をしないのは悪い子だ。自分の調子を相手に刷り込むのは、大人のやることではない。零れた牛乳を、自分の力で拭き取れなかった。

わたしは恋人である彼と、一つ屋根の下で暮らしている。感染症を忘れそうになっている世の中。まだまだ気を抜けないと机を叩く世の中。端っこの端っこで生活している。二人暮らしで、冷蔵庫が二段しかないのはどう考えても、バランスがよくない。


毎日、欠かさずに。

彼が帰ってきたらわたしが玄関まで走って、何をしていたってお利口に言う。「おかえりなさい」と返すから、新しい夜が始まる。それができないわたしは、風邪でもなんでもない。熱を測ったらきっとせいぜい36.9度。あともう少しで休めたのになんて、冗談やめてよ。


「どうしましたか?」

布団を被ってめそめそしているわたしを見ても彼は言わない。薄目で確認した、彼のうなじは星より綺麗だった。流れてほしくない。どんな時でも見上げたらそこにある、わたしだけの人、もの。

重たい荷物をゆっくりと置く。

彼は写真家として生きている。撮るのは、景色。それか、人以外のもの。彼に告白をしたあの日、わたしはほとんど彼の撮った写真を見たことがなかった。見せてもらえなかったわけではない。「見せて」と言わないと、見せようとしない彼だったから。


服を脱いで、裸になって。

シャワーを浴びている。あとから聴こえてきたドライヤーの音。「自分でできますよ」「いいから貸してください」。本当だったらわたしが笑顔で乾かしたかったのに。

歯を磨いた彼が、そのままわたしと同じベッドで横になる。寝たふりが苦手なわたし。加えて昨夜は右瞼が痙攣していた。「起きてますか?」と言うから、わたしは無意識に頷いてしまった。


彼が笑う時は、しっかりとした音が鳴る。目を閉じていてもそれがわかるから、そのまま流れてくるものが、水色。


「明日、何を書いたらいいかわかりません」


誰かから見たらつまらない不安だろうか。人はそれ以外にもやることが山ほどあるというのに、言葉を文章を書くことが生きがいのわたしにとって、何も思い浮かばない、何を書いたらいいかわからないという感情は何より蝕むものだった。

誰にも頼まれていないことを続けることは苦しい。


自分で作った締め切りが、毎日ある。
エッセイをここで、きちんと自分が納得したものを発表し続けている。人は目標を決めた方がいいと言う。終わりがないから、息が苦しいのか。

彼が帰って来る前も散々泣いていたわたしは、それでも彼の前で泣いた。「男の涙なんて、誰も求めていない」「男の涙は需要ない」「男の涙は人に見せるものじゃない」「男の涙は」「男の涙は」「男の涙は」って、それで傷つく人は、男だけではない。もちろん、泣いている人は一番ではない。

泣き虫のままでは一生、お化粧ができない。

彼を愛したわたしは、女の子の格好をしたい。


結局書くことも決めずにわたしは彼の胸の中で眠り、今日を迎えていた。



「おはようございます」

「…、」


朝ごはんは、わたしが作るのが毎日だった。
キッチンに立っていたのは、わたしの愛する彼。焼き過ぎなトーストと、焼き過ぎな卵。それを踏まえて慎重になりすぎたのか、うまく焼けていないベーコン。それだけで可笑しくて、涙が止まらなかった。


「いただきます」

「…、」


手を合わせて、頭を前に倒す。
レシピのない食べ物、日常、しおり。

相変わらずその時も、わたしは何を書いたらいいかわからなかった。自分で作ったものを美味しそうに食べる彼。口元についた、舌で拭き取る仕草は、お人形さんみたいだった。到底無理だと言われた恋を、わたしと彼が続けている。


「そういえば、見せたいものがあるんです」

行儀悪く、汚れた手をはらう。舐めた親指と人差し指。それは、わたしも知っている味。スマホを弄り始めた彼が見せてくれたのは、わたしの顔。聞かなくてもわかる。"昨日の"泣き疲れて眠ったわたしが映っていた。


「これが、僕の愛している人の顔です」


出したくないのに、流れ続ける。
涙を堪えるために、瞼はあるものだと思っていた。漏れ出す風船の空気のように、体が宙を浮き続ける。限定された感情で溺れるわたしを見て、彼は続ける。


「自分の見ている景色を見せたくて、僕は写真を撮っています。あなたも、同じですか?創作に触れると、その人のことを少しだけ知ることができるんです。だから教えてください、あなたの景色を。見たい人が、必ずいます」


彼は深呼吸をするようにして目を閉じる。手だけを動かし、わたしの目の前でその写真を消していた。

「撮ったのは、一枚だけです」

首を傾けながら、目尻は床につきそうなほど弧を描いていた。「何を書こう」という呪いが、変色する。


「僕があなたを撮らないのは、撮らないでと言われているからではありません。撮ったあなたを見せたい相手が、あなたしかいないからです」



プロポーズかと思った。


「僕はあなたを守るために、あなたとの約束を平気で破ります」


日記なんて、エッセイなんて書かなくても生きていける。写真なんて撮らなくても生きていける。他の方法がいくらでもある。それでも書きたくて、撮りたくて生きている人がいる、わたしのように、彼のように。あなたは、何をして生きている時、「生きている」と思うだろうか。


「書くことに困ったら、あなたの景色を僕に見せてください」


生きていくために、大切な人を愛するために、わたしは毎日一つひとつ好きな言葉を増やしている。沢山知っていると、沢山愛せるわけではない。「好き」の意味は、「好き」だけではないから。

あなたの瞳に映るものは、あなただけのもの。けれど、見せて。


「あなたの写真になりたい」
「あなたのエッセイになりたい」

何が良くて、何が悪いかは、やってみないとわからないから。下手でも、沢山撮ったら、一枚くらいいい写真が撮れるかな。お願いされなくたって、人は考えている。考えているよ。

明日の景色を、今日は撮れない。だから毎日生きるのが楽しみになる。文章も、エッセイも同じかな。


「いってきます」

「いってらっしゃい」


口紅を塗り直す。珈琲は、これで二杯目。

初めから知っている価値を目指すより、自分で決めた、自分だけの言葉の価値を目指して。鏡の前で、わたしは言う。


「今日も、いい景色だね」


書き続ける勇気になっています。