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それは「批評」でも「考察」でもなく、ただの「無駄な饒舌」というやつではないのか?

たまたま「批評」と「考察」の違いについて、昨年の『プロフェッショナル 仕事の流儀 “ジブリと宮崎駿の2399日”』を題材に書かれた記事をふと目にしたのだが、この三宅香帆なる女性は本当に「批評」をわかっているのであろうか?
気になったので他の記事もある程度ざっと目を通してみたのだが、「どっかで見たことあるなあ」と思ったら、かの宇野常寛とお仕事されたこともある人らしく、以前にこちらの動画を視聴したのがきっかけだった。

この対談動画は私が見た中では珍しく批評に関してなかなか的を射たことを言っているとも思ったわけだが、ただ私からすればこの人たちは「評論家」「書評家」ではあっても「批評家」とはいえないなと見ていて感じる。
特に宇野さんに関してなぜ私が執拗なまでに批判的なのかといえば、平成ライダーを賛美してスーパー戦隊を見下す感性・スタンスもそうだが、何より『母性のディストピア』を中心とした著書それ自体が「骨董品化」にしかなっていないからだ
すると、やはり同じ思考・波長の人を引き付けるようにできているのか、書評家と名乗るこの女性も話を聞いている限りだと、いわゆる「批評ジプシー」というものにでも陥ってしまっているのではないかと思われる。
要するに「自分が心の底からいいと思った作品を全力で擁護する」為に書評というものを仕事にしているのではなく、「書評家としてチヤホヤされている自分が好き」という「恋に恋している」状態なのではないか?

「批評ジプシー」とは「セミナージプシー(ビジネス系のセミナーや自己啓発本に依存してしまい、ただインプットのみをし続ける人)」の批評版を言うのだが、彼女もその典型ではないかと思えたのだ。
そもそも「批評を読むのが好き、というのが自分のモチベーションにある」と言っている時点で批評が「手段」ではなく「目的」になってしまっているというのがわかる。
以前から何度も言い続けているが批評とはあくまで視聴者と作品を繋ぐための呼び水であり、本来の目的が「作品に全く興味のない人をその作品に向かわせること」なのだが、彼女はどうもその「手段と目的」が逆転しているらしい。
別に批評を読むこと自体は何ら悪いことではないのだが、その批評に書かれたものが全てだと思い込み自分もその批評家になったかのごとく錯覚してしまうのは一番危険なことである。

そんなスタンスの人が書いたこの記事だと思うと、言葉の背景にあるものも含めて意図は明確のだが、特にこの部分に対して強い拒絶反応を示した。

批評と考察の違いは何か。
考察→作者が提示する謎を解くこと
批評→作者も把握してない謎を解くこと
と分けられる。

そもそもこんなことを述べている時点で「批評と何か?」すらわかっていないとしか思えないのだが、彼女の定義に基づいて述べるなら作品の中心にない細部をひたすら褒めまくれば批評になるという安易なものだろうか?
そんなわけはないだろう、そんな安易なものであれば世の中全員が批評家になっているであろうし、その中心化されていない豊かな細部の解釈も人によって見方・見え方が違うのだから一概にこうだと定められるものではない。
確かにかの蓮實重彦も「時には作者の意図していない部分が受け手の感性を揺るがすこともある」とは述べているが、あくまでもそれは時と場合によるのであって、それが絶対であるかのような断定をするのは危険だ
庵野の「エヴァ」の「マリとは安野モヨコ的な理解ある妻」という、およそまともな感性・知性を持った者とは思えない意見に対して「批評」と「考察」の違いを述べていたが、私からすれば精々団栗の背比べである

こういう風に作品そのものから受け取ったものを言語化する際に「ここの部分にはこういう意図がある」とし、そこに権威づけをしていくことは人間なら誰しもがあることだが、それが目的になってしまうと「骨董品化」へ繋がっていく。
「この作品はこのように見るのが正解」という風な決めつけをしてしまう事例はたくさんある、例えば『機動戦士ガンダム』の「人類同士がMSに乗って戦う戦争を描いた人間ドラマ」や『鳥人戦隊ジェットマン』の「戦うトレンディドラマ」などがそうだろう。
そのような固定化された言説が世に伝搬していくと誰もがそれを正解であるかのように決めつけたがるのだが、それは本来の「批評」のあり方からは遠のくことを意味し、かえって批評の可能性や豊かさを狭めて作品自体を痩せ細ったものにしてしまう可能性がある
だから「批評」、すなわち「作品の善し悪しの価値判断を下す」行為は簡単にできるものではないし、常に「言語化することで見方の可能性を限定化しない」ように注意する必要があるのではないだろうか。

そして、これはもう大事なことなのでなんども言うが、批評において最も重要なのは「自分が全力で擁護したい作品があるか?」「自分にとっての「これだ!」と言える出発点となる作品があるか?」である
私の場合それは明確にあって、ほとんどが90年代の作品が中心ではあるが、例えばスーパー戦隊シリーズにおいてはそれこそ『鳥人戦隊ジェットマン』と『星獣戦隊ギンガマン』は正に原体験で感性が揺さぶられた出発点となる作品だ。
「ジェットマン」はそれまでスーパー戦隊シリーズが「存在する」ことは知っていても興味を持てなかった私をガッツリとスーパー戦隊シリーズに「誘(いざな)ってくれた」作品であり、1話のフィルムを見て雷に撃たれたような衝撃を受けた。
そして「ギンガマン」はその「ジェットマン」を超える衝撃を受けた第二の作品であり、スーパー戦隊シリーズを「見ること」、そして「書くこと=擁護すること」を運命付けてくれた作品である。

もちろんこの2作だけではなく、ほかにも例えば『勇者エクスカイザー』『勇者警察ジェイデッカー』『機動武闘伝Gガンダム』『ドラゴンボール』などなどいろんな作品があるが、出発点は間違いなくその2作だ。
そして大人になって知ったのはスーパー戦隊シリーズがこれだけ作品数が多いにも関わらず、仮面ライダーやウルトラマンに比べて1ランク下のジャンルと見做されていること、作品に対して批評が全然形成すらされていない現実である。
それに対する異議申し立てと私自身が元々持っていた「書かずにはいられない」という言語化・文章作成に対する熱量など様々なものが噛み合った結果今のスタイルになったのだが、書評家と名乗るこの女性にはそれがあるのだろうか?
どうにも彼女の記事や動画の発言などを見るに、「これこそ私が全力で擁護したい作品だ!」となる強烈な出発点の作品がないのに、先人の批評・書物のスタイルをなぞっただけのエピゴーネンにしか見えないのだが。

もちろん先人の書いた文章に影響を受けることは構わないし、その批評の文体やアプローチから盗めるものは盗んでいいとは思うのだが、根幹にある「この作品を私は擁護したい!」がどうにも感じられない
京都大学という高学歴で、テレビにも出演し書籍もたくさん出し、いろんな「読み方」「書き方」のセミナーもしているのに、肝心要の部分の「書評家としてのマインド」が空虚ではないか?
テレビドラマ・漫画・アニメなどあらゆるジャンルの評論を手広くやっているという割に、書評そのものからは「熱」が感じられないし、誰の為の書評なのかすらもわからない
「作品を見る(読む)」という行為について、本当に奥底から納得できるくらいに試行錯誤し抜いたという感がまるでなく、文章を書いて本を出すことだけで満足しているように思えてならないのだ。

そのようにして書かれたものは「批評」でもなければ「考察」でもない、いわば「無駄な饒舌」というものではないかと私は思う。

別に三宅氏を誹謗中傷しているわけではない、「批判」はしているがそれも「勿体無い」と思っているからこそである。
「自分の思っていることを文章として形にしたい」というそれ自体は私も全く否定しないし、彼女にはその才能がきっとあるのだろう。
だが、その一方で批評家にとって最も大切なものたる「熱量」、すなわち「これこそが私にとって全力で擁護すべき出発点となった作品だ!」という熱が彼女の書評からはごっそりと抜け落ちている。
とても勿体無いことだと思うのだが、本人がまあそれを良しとしていて周りもそれなりにチヤホヤしてくれている以上、それに気づくこともないのであろうから別に私からどうしろというわけでもない。

ただ、「見る」ことと「書く」ことをあからさまに舐めてかかっている彼女の書評家としてのあり方は私の癪に障るものではあるので、それだけは到底相容れないものである。

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