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高校生のための人権入門(20) パワーハラスメントを生む「集団」とは

はじめに

前回、「現実の『人と人との関係』は、基本的に力と力の関係であり、どちらかがどちらかを支配している(相手を従わせている、自分に合わせさせている)関係なのです。」と書きました。このことについて、次回、くわしくお話したいと思っていますが、今回は、それを考える前に、まず、パワーハラスメントを生む集団は、どんな性質を持っている集団かを考えてみたいと思います。

人と人がつくる二種類の集団

人と人がつくる集団は、大きく分けて、A「その集団の維持を目的とする集団」B「(その集団の維持以外の)なにかの目的を達成するための集団」とに分けられると思います。Aの例としては、とりあえず、家族や友だち仲間などを挙げておきましょう。また、Bの例としては、会社やプロジェクト・チームなどをとりあえず挙げておきます。「とりあえず」と書いたのは、もちろん、現実の集団は、必ず両方の性質を持ち合わせているからです。ですから、これから申し上げることは、人間の集団が持つ二つの面を、あえて対立的に抽象化したものと考えていただいてかまいません。

パワーハラスメントが起きやすい集団

パワーハラスメントが起きやすいのは、「(その集団の維持以外の)なにかの目的を達成するための集団」の方だということは、すぐにおわかりいただけるかと思います。つまり、集団の目指す目的が明確にあるために、その集団における「正しさ」も明確で、その集団に属する者はその「正しさ」に従って動くことを要求されます。つまり、このような集団のメンバーは均質化され、ひとつの基準(能力等)によって、序列化されます。ただ、どんな集団でも、それが集団である限り、その集団の「正しさ」に(意図的にか、非意図的にか)従わない(ように見える)人が必ず出てきます。その時、「強い立場」にある人が、自分の力を使ってその「間違っている人」を無理やり「正しく」変えようとした時に、パワーハラスメントが起きてくるのです。(くわしくは、第3回「パワーハラスメント」をご覧ください。)

「どちらが正しいか」は、一番重要な問題ではない集団

逆に、Aの「その集団の維持を目的とする集団」の場合はどうでしょうか。もし、その集団が、「その集団の維持」だけを目的としているのであれば、集団を構成しているメンバーとメンバーの間で対立が起きた時、解決の方法は対立したメンバー双方が、集団の中にいられるものでなければなりません。つまり、双方がこの集団に残れるように他にメンバーは双方に働きかけることになります。具体的には、双方がなんらかの妥協をし合ってその集団に残ることになります。ここで注意したいことは、そういった解決の場合、「どちらが正しいか」は、一番重要な問題ではないということです。一番重要なのは、今後もその集団の中でみんなが仲良くやっていけることです。

「男社会」と「女性がつくる集団」

このような説明は少しわかりにくいと思いますので、多少、誤解を生みそうですが、もう少し実感としてわかりやすい説明をしてみます。説明の中で、女性と男性を対比するような説明が出てきますが、あくまでここで言っているのは、ジェンダーがつくり上げた、イメージとしての「女性」、「男性」のことであって、具体的な個々の女性や男性がすべてそうであるということではありません。第11回の「女性の人権について」でも書いたように、現実には「性差より個体差の方が大きい」のです。ここでお話しするのは、あくまで、今の社会においてそのような傾向があるのではないかというお話です。

わたしの今持っているイメージでいえば、Bの「なにかの目的を達成するための集団」とは、「集団を(目的達成のための)手段としている集団」であり、Aの「その集団の維持を目的とする集団」とは、「集団自体を目的としている集団」と言えます。あえて、誤解を生みそうな言い方をすれば、いわゆる「男社会」はBの典型です。そして、それに対して、女性がつくる友だち仲間やママ友会の集団はAの性質を強く持っていると思います。Bの典型である「男社会」が必然的にパワーハラスメントを生むことは、もう今までの回でお話しした通りです。(くわしくは、第3回「パワーハラスメント」などをご覧ください。)

では、Aの「その集団の維持を目的とする集団」はパワーハラスメントのような人権侵害を生むことはないのでしょうか。もちろん、そんなことはありません。「集団(の維持)自体を目的とする集団」の場合、メンバーが一番してはならないことは、その集団のまとまり、結びつきを壊すことです。第13回の「学校でのいじめについて」でも書きましたが、子どもたちに限らず、人々は自分たちが(暗黙のうちに)守っている「やり方」(つき合い方)を、細かいところまで日々、守り合うことで結びついています。逆に、その「やり方」を守らない(挨拶を返さない等)ことは、その集団に対する「攻撃」ということになります。そのような、その集団の存続を危うくしそうな人間は、他のメンバーから非難され、攻撃され、排除されます。職場におけるパワーハラスメントでも、女性集団の中でのパワーハラスメントは、そのような経緯から起きている場合が多い気がします。そんな点で、学校でのいじめに似ているところがあると、わたしは思います。

職場の上司(女性の上司も含みます)が部下に行うパワーハラスメントが、職場の「目的達成を邪魔しそうな人」への非難、攻撃、排除としての面が強いのに対して、職場の女性集団の中でのパワーハラスメントは「自分たちのつながり(関係)を壊す人」への非難、攻撃、排除という面が強いとわたしは感じています。このことは、精神科医の斎藤環さんの言う「男は所有を追求し、女は関係を欲する」(『関係する女 所有する男』講談社現代新書、斎藤環著)というとらえ方と関連させてみると、わかりやすいかもしれません。男性にとっては、(相手が男性であれ、女性であれ)相手は自分の目的達成のための「手段」になります。「手段(道具)」であるからこそ、それを所有する(自分のものとして、意のままに従わせ、使う)ことが一番重要になるのです。それに対して、女性にとって、相手は(女性であれ、男性であれ)自分との関係(つながり、関わり)を持つ存在であり、相手と良好な関係を持てるかどうかが一番重要になります。これはもちろん、ジェンダーがもたらす先入観に基づいた図式的な対照化です。そして、わたしは、人権問題や人と人の関係を考える上では、「女性」の生き方、考え方、あり方の方が、はるかに本質的で、まともで、よいと思います。みなさんはどう思われるでしょうか。

人間は人間を、手段とするだけではなく、目的としなければならない

18世紀ドイツの哲学者、イマヌエル・カントが、『倫理の形而上学の基礎づけ(道徳形而上学原論)』の中で、「理性的存在者のおのおのが、じぶん自身とあらゆる他者たちとを、けっしてたんに手段としてのみではなく、つねに同時に目的自体そのものとして取りあつかうべきである」(『実践理性批判/倫理の形而上学の基礎づけ』107ページ、作品者、熊野純彦訳)と書いています。文中の、「理性的存在者」とは人間を指します。つまり、「人間は、人間すべてを『手段』としてのみ扱ってはならず、同時に『目的』そのものとして扱わねばならない」と言っているのです。「男社会」とは、まさに自分を含めてすべての人を、目的達成のための「手段(道具)」と考えます。これに対して、「人間自体を人間の目的をする」とは、どういうことでしょうか。わたしは、今までこの「高校生のための人権入門」で述べてきましたように、それは、自分自身について、「今のわたしはこれでいい」と考え、他の人に対しては、自分とその人とのつながり(関係)を何よりも大切にすること、つまり、「正しさ」から抜け出して、お互いに笑顔で生きていくことを一番大事にするということだと考えます。

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