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小説たち

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掌編、短編小説と長編の第一話をまとめてます。多分、主人公は男が多い(笑)
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#短編小説

【改稿版】カレーの事情《1》「僕が記憶をなくした理由」

【改稿版】カレーの事情《1》「僕が記憶をなくした理由」

 鼻孔に香ばしい匂いが広がった。ターメリック、レッドチリ、クミン、コリアンダー。さまざまなスパイスが混ざり合った中に少しだけ香るトマトの匂い。これは我が家のカレーの匂いだ。今朝もカレーか。そう思いつつ、僕は重い瞼を開く。

 目の前には見慣れない天井の色があった。僕の家ではない。目を開けるまで家の自室で寝ているものとばかり思っていたのに。今いる場所を確認しようと慌てて起き上がる。途端、体の節々が鈍

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ふがいない僕が捧げるメリークリスマス

ふがいない僕が捧げるメリークリスマス

※。.:*:・'°☆

 書きかけの小説が、腕のなかで暗がりに横たえている。渡せなかった一節は、時間に託つけて踏み出さなかった罰なのだと云わんばかりに素知らぬ顔してクリスマスイブの聖歌を歌っていた。完璧なきみには似合わないほど不恰好で、不器用すぎる僕の物語を、きみは知るよしもない。

※。.:*:・'°☆

『しゃんしゃんという音は、トナカイの足音だと思っていた。』

 デスクライトのオレンジ色が

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朝を待つ

朝を待つ

 あなたはずっと、朝を待っていたのかもしれない。

 朝待ち宵。
 透けていくその言葉を心の中で反芻しながら、遠くの空に生まれ行く朝焼けを見ていた。
 施設のバルコニーで、同じベンチに腰掛けるあなたを見やると、伸ばしっぱなしの髪が無風の中で微かに揺れる。それは東雲の空に色彩を乗せていく絵筆のように見えて、すこし哀しかった。こんな中でもあなたの髪は白いままなのだな、とひとり、心の中でつぶやく。

 

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星の送り人

星の送り人

 銀湾が、藍より少し深い色をした夜空に広がっていた。森深い辺境の地にあるその村からは、無数に輝く星一つひとつの光の輪郭がはっきりと見える。ふと、澄んだ夜風が南東から吹き抜けてきて、草木の香りを匂い立たせた。少女が纏った麻布の衣と左右に結った三つ編みが、それに倣って軽やかに揺れる。
 この調子だと、明日も晴れそうだ。そう思いながら、少女は胸を撫で下ろした。
「セイラ」
 彼女が名を呼ばれて振り返ると

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ムーンライト・メロウ

ムーンライト・メロウ

夕紅とレモン味 ークラン・ドゥイユー

 行き合いの空に少しだけ、欠けた月が夜空に浮かんでいた。ほとんどまるいかたちをしたそれは満月と言っていいのかもしれない。

 ふと手元に視線を落とす。ティーカップに注がれた紅茶が月明かりに照らされてもなお、夕空を閉じ込めたような橙色に輝いていた。沈殿した茶葉が濃い色層となって、いっそうどこかの夕暮れ時の風景に見える。

 そっと、華奢な取っ手をつまんで、カッ

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refrain

refrain

 あなたの打つ句読点は、息継ぎなのか、区切りなのか、ぼくにはわからなかった。ただその言葉の波はおそろしく静かに降り注いで、呼吸を楽にしてくれる。それはぼくの指標になり得るくらい美しい、雨だったんだ。

 ぼくの人生はきっと平凡で、凪のようだねとみんなは言うだろう。否定はしない。17年間生きてこのかた、感情が揺さぶられたことがほとんどないのだから。友情も恋愛も上辺だけで感情は伴わず、いつだってみんな

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はつ恋

はつ恋

―消しゴムのすり減りは恥じらいのある証拠。
 そう言われたのはいつだったけ。

 背景に桜木と舞う花びらがあしらわれた原稿用紙に文字を連ねながらふと思った。

「あ」

 『だったっけ』の最後の『っ』が抜けている。豆粒ほど小さくなった消しゴムで『け』の字を消す。ちょうどそのマスに収まった桜の花びら達は、地面に落ちて踏みに踏まれた時のように黒ずんでいた。せっかくの綺麗なピンク色も台無しになってしまう

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カレーの事情

カレーの事情

 鼻孔に香ばしい匂いが広がった。これは我が家のカレーの匂いだ。今朝もカレーか。そう思いつつ、重い瞼を開けた。目の前には見慣れない天井の色があった。僕の家ではない。目を開けるまで家の自室で寝ているものとばかり思っていた。今いる場所を確認しようと僕は慌てて起き上がった。だがその瞬間、体の節々が鈍く痛み出した。同時に脳がふわっと浮かび上がる感覚に襲われる。瞬きするとその感覚も失われ、鼻の奥がツーンとこそ

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