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カレーの事情

 鼻孔に香ばしい匂いが広がった。これは我が家のカレーの匂いだ。今朝もカレーか。そう思いつつ、重い瞼を開けた。目の前には見慣れない天井の色があった。僕の家ではない。目を開けるまで家の自室で寝ているものとばかり思っていた。今いる場所を確認しようと僕は慌てて起き上がった。だがその瞬間、体の節々が鈍く痛み出した。同時に脳がふわっと浮かび上がる感覚に襲われる。瞬きするとその感覚も失われ、鼻の奥がツーンとこそばゆくなった。鼻の根元を抑えて、辺りを見回した。僕はベッドの上に座っていた。その周りを囲むように白いカーテンが掛けられている。状況から察するに病院だろうか? すると、カーテンが開かれ、白衣を着た女性が現れた。
「よかった。目が覚めたのね」
 そう言ったのは、うちの学校の養護教諭・瀬古先生だった。ということは、ここは保健室か。瀬古先生はベッドの脇に立つと、僕の顔をまじまじと見てきた。
「やっぱりまだ腫れてるわね。ごめんね、痛かったでしょ?」
 瀬古先生は申し訳なさそうに言ってきた。だが、なんで謝られているのかまったくわからなかった。
「覚えてない? その時にはもう意識がなかったのかしら?」
 瀬古先生の話していることがまったく理解できなかった。そのままキョトンとしていると察したのか、瀬古先生はまた話し始めた。
「あなた保健室の前で倒れてたでしょ? 気付かなくって顔面蹴っちゃったのよ」
「はい?」
 思わず声が出てしまった。保健室の前で倒れてた? まったく身に覚えのないことを言われて、ただただ困惑するしかなかった。僕は朝、自分の部屋のベッドで目を覚ますはずだったのに。何が起こっているというのだろう。
「大丈夫? 目眩がする?」
 瀬古先生が心配そうにこちらを覗き込んでいた。無意識に額に手を当てていたらしい。額から手を離し、瀬古先生に向き直った。
「俺に、何があったんでしょう?」
「訊きたいのはこっちの方よ」
 瀬古先生は呆れた表情で言った。もう一度、額に手を当てて考えてみる。記憶の中を探ってみても、自分の足で保健室に向かった思い出などない。むしろ深夜眠りにつく少し前の記憶が際立って浮かんでくる。
「まだ体調よくないんでしょう? 休みなさい」
 瀬古先生が肩を優しく叩いた。顔を上げると、カーテンの隙間から時計が見えた。うちの学校は丸時計の中央にデジタル文字で日付が表示されるようになっている。現在、時刻は6時10分ちょっと前、中央の文字は2016.12.22と表示されていた。絶句した。僕が眠ったのは、12月21日の深夜だ。ということは、今までに起こった今日の記憶がすっぽり抜けているのだ。もしかしたら夢かもしれないと頬を思い切りつねってみたが、打身ができているらしく余計に痛かった。それがさらに現実だということを教えてくれる。もう一度目を瞑って考えた。だが、記憶の片鱗は一切見つけられなかった。
「ダメだ。全然思い出せない……」
「どうしたの?」
「今日一日の記憶が、ないんです」
「えっ⁉」
 瀬古先生は驚いて困ったような表情をした。
「本当に思い出せないの? 一部でも何か思い出せない?」
 僕は無言で首を横に振った。瀬古先生は僕の答えを受けると、背を向けてベッドから離れた。そして、こちらに向き直り、またベッドの脇に立った。
「こういうのは自然に思い出すのを待った方がいいのよ」
「でも、なんでこうなったのか今思い出せないと気持ち悪いです」
「そうよねぇ……」
 瀬古先生は頬に手を当ててしばらく考え込み、決意したように「よし」と言った。
「わかったわ。少しずつ思い出す練習をしてみましょう」
 そう言われて少しばかり気が楽になったように感じた。
「まずは、そうね……昨日のご飯は何食べた?」
 記憶を探りつつ答えた。
「朝は……カレーパン」
「うん」
「昼は……カレードリア」
「う、うん」
「夜は……カレーうどん」
「カレーばっかりじゃない。あなたそんなにカレー好きなの?」
 瀬古先生は呆れたように言った。
「いや、家はカレー作ったら一週間はずっと続くので。まあ、好きではありますけど」
「そんなに⁉ カレー好きにもほどがあるわよ」
 普通ではありえないと思っていたけれど、他人に言われるとなお異常なのだなと感じさせられる。そんなことになったきっかけはあるが、今は思い出したくないし、話したくもなかった。ふいにまた鼻先にカレーの匂いが広がる。その瞬間、記憶が何かに引っかかった。思わず「あ」と口に出した。
「何か思い出した?」
「なんか、そんなことを言われたような気がして。なんか、カレーなんちゃらって言われたような……」
 目を閉じて再び思い出そうとしたが、ぼんやりとしていて何も読み取れなかった。瀬古先生がこちらを見て答えを求めていたが、僕は首を横に振った。
「じゃあ、予想でいいから今日の一限目の授業は?」
「月曜だから……体育、ですね」
「何をやったかしら?」
「ん~……金曜はバレーだったから、たぶんバレーですかね」
 歯切れの悪い返答に瀬古先生は再び困ったような顔をした。自分でも言ったことにモヤモヤを感じていた。
 その時、コンコンと軽い音が窓の方から聞こえた。見ると、同じクラスの竹本が窓の外からこちらを見ていた。瀬古先生が窓を開けにベッドの脇から離れた。窓が開くと同時に竹本はサッシに足をかけて軽々と窓を潜り抜け、中に入ってきた。
「ちょっと! ちゃんとドアから入りなさい!」
 瀬古先生が怒鳴って注意するが、竹本は「すんません」と反省の気配もなく言った。そして、ベッドの脇に寄ってきた。
「広、やっぱり平気じゃなかったのか」
 竹本が無表情で呟いた。やっぱりとは何だろう。何か知っているのだろうか?
「何が?」
「体育ん時、バレーボール顔面に食らわしただろ」
 その言葉を聞いた瞬間、脳裏に映像が蘇ってきた。バレーコート半面の中央で竹本が立っている。僕はコートの外からそれを見ていた。竹本が助走をつけて高くジャンプする様は、スローモーションのようにゆっくりとしていた。だが、スパイクをかました瞬間、ボールは目にもとまらぬスピードで一直線にこちらに向かってきた。
 そこで映像は途切れた。あまりの衝撃に呆然として言葉が出なかった。心なしか顔面がジーンと痺れるような感覚がする。
「思い出した?」
 瀬古先生は身を乗り出して訊いてきた。
「顔面に来た瞬間だけは。後は何も……」
 実際にその瞬間以外はまだぼんやりともしてなかった。
「そう……でも、頭に強い衝撃を受けたとなると、それが原因かもしれないわね」
 瀬古先生が頬に手を置いて、思い悩むような顔をした。
「何が?」
 竹本が無表情のまま訊いてきた。記憶喪失の原因が自分のせいだと知ったら責任を感じてしまうだろう。竹本は無愛想だけど根は優しい奴だ。
「いや、別に……」
「なんかあるなら言えよ」
 竹本は凄んで言った。静かだけれど、威圧的なまなざしで見てくる。それには逆らえない。
「実は……今日一日の記憶がなくなったっぽくて」
 黙っていようとした後ろめたさもあり、変な言い回しになってしまった。竹本は無表情のまま一度瞬きをして、口を開いた。
「階段から落ちるか?」
 竹本の一言に瀬古先生が小さく「は?」と言ったのが聞こえた。竹本は突拍子もなくこういう冗談を言う時がたまにある。
「なんで階段?」
「よくあるじゃないですか。階段から落ちて記憶喪失になって、もう一回やって戻るみたいなやつ」
「それは階段から落ちたことが前提でしょ? たぶん体育の時のことが原因だと思うし」
「いや、違うと思いますよ」
「なんでそう言い切れるのよ」
「だってその後も、広は普通に6限目まで俺と一緒にいたし、時間差で記憶喪失になるなんてありえないでしょ?」
 竹本は得意げにもせず言い切った。確かに体育は1限目だった。
「確かに。松井君が保健室の前で倒れてたのも放課後だったわ」
 竹本の言う通り、時間差で記憶喪失になることはありえない。だとすると、放課後に何があったのか? 僕は再び集中して思い出そうとしてみたが、考えすぎたからか頭が痛くなってきた。
 すると、バアーンとドアが激しく開く音が室内に響き渡った。瀬古先生が何事かと急いでカーテンを開けようとしたが、その前にカーテンが開かれた。そこには僕たちの友達の梅沢が立っていた。僕を見るなり梅沢は、素早く飛びついてきた。勢いが良すぎたせいで体中に痛みが走った。
「広~! ごめ~ん!」
 梅沢は言いつつ、抱きつく力を強めていく。耐え切れずに腕を振りほどいた。
「痛いから、離れろっ」
 梅沢は目を潤ませて、シュンとしていた。
「だって、心配だったんだよ!」
「俺になにがあった?」
「一緒に階段から落ちたじゃん!」
 その言葉を聞いた瞬間、再び脳裏に映像が流れ始めた。僕はゴミ袋を手に階段を下りている。すると、「広」と呼ばれて振り向く。梅沢が階段へ走ってきていた。階段を駆け下りてくる瞬間、梅沢は前のめりにこちらに倒れてくる。そのまま押し倒され、世界の景色がひっくり返った。
 再び映像は途切れた。先ほどよりも疲れた感じがする。首筋を触ると、じわりと汗が出ていた。
「どう?」
 瀬古先生が心配そうな表情で訊いてきた。
「また、落ちる寸前だけ、です。部分的にしか思い出せてません」
 瀬古先生はため息をもらした。梅沢は皆の顔を見回して、何が起きているのかわからないというふうな顔をしていた。
「となると、やっぱり階段から落ちるしかないな」
 竹本がまた真顔で言った。
「ええ⁉ 何で?」
 梅沢がオーバーリアクションで驚いている。瀬古先生は冗談を無視して梅沢に聞いた。
「梅沢君、その後松井君の様子はどうだった?」
「え? その後は広がゴミ出し行かなきゃいけないからって急いで行っちゃいましたけど。その時、謝りそびれたから教室戻って待ってたんだけど、広帰ってこなくて、電話かけてても全然出ないから怒ってるのかと思って、今まで探してたんです」
「う~ん。これも原因じゃないみたいね」
 電話と言われて胸ポケットに手を当てた。いつもここにスマホを入れている。だが、ポケットは空っぽで何も入っていなかった。
「どうした?」
 竹本が異変に気付いたのか、訊いてきた。
「スマホがない。いつもここに入れてたのに」
「教室にはなかったの?」
「教室で電話かけても音しなかったから、ないと思います」
「ってことは、ゴミ出しに行った後に何かがあったわけね。そういうことならスマホの在り処がわかれば、何か思い出すきっかけがわかるんじゃないかしら?」
「じゃあ、いくぞ梅沢。広はここで待ってろ」
 竹本が梅沢の襟首を掴んで言った。梅沢は竹本に引っ張られながら、わけがわからないというような顔をしている。入口に向かおうとしていた竹本が足を止めた。入口を見ると、下級生であろう男子がこちらを覗いていた。その男子は目が合うと、控えめに中に入ってきた。そして、ベッドの脇に立った。
「あの……これ」
 そう言って男子は、両手で握っていたものを差し出した。僕のスマホだった。だが、液晶画面はひび割れており、なんだか異臭もする。
「あの……さっきはありがとうございました」
 男子はそう言うと深々と頭を下げた。僕はこの男子に見覚えがまったくなかった。思い出そうとしてみるが、匂いも相まって気持ち悪くなってきた。
「さっきって言ったけど、今日彼とあったのね?」
 瀬古先生が男子に聞いた。男子は無言で頷いた。
「君と何をしたか、話してくれないか?」
 男子はひとつ間をおいてから「はい」と小さな声で言った。
「からまれてたところを助けてもらいました。途中で逃げてしまって何が起こったかはわからないんですけど……戻ってきたら、吐いた跡とスマホが落ちてて……」
 まったく身に覚えがないことだった。先ほどのように瞬間的に映像が流れてくる予感もしない。何より自分がそんなことをしたとは思えなかった。
「広が、そんなことを‼」
 梅沢がまたオーバーに驚いていた。竹本も少し驚いた顔をしている。
「ヤンキー映画観ただけで吐くほど暴力系ダメなのに⁉」
 返す言葉もなかった。僕はそういう事は避けて通っていた。自分でも何で助けたのかわからない。
「あの、苦手なのにわざわざ助けてくれて本当に、ありがとうございます」
 また男子は深々と頭を下げてきた。身に覚えがないのにこんなにお礼を言われると心苦しくなってきた。
「あ、いや、俺はなんで君……名前なんだっけ?」
「三田、です」
 男子は答えた。その瞬間、頭の中のモヤモヤがシャワーで洗い流されたように晴れていった。同時に記憶が色鮮やかに鮮明になる。
「あ、思い出した」

 僕は昔から臆病者だ。自分から話しかけて友達を作ったことが生涯一度もない。だから、中学校に入った頃は友達が一人もいなかった。周りがどんどんグループを確立していく中で、僕はどこかの輪に入ることもできず、一人になった。こうなってくると、こういう暗い奴なんだと周りに認識され、誰も話しかけようとはしてくれなくなった。休み時間はいつも机に突っ伏して眠っていたし、体育のキャッチボールは残りものになった。
 そんな僕とは比べ物にならないくらいだったのは同じクラスの富田だった。富田は明るくてクラスの人気者だった。スポーツ万能で、誰にでも偏見なく接してくれるとても心の広い奴だった。体育の時も僕とペアを組んでくれて、嫌な顔ひとつせずにキャッチボールをしてくれた。授業以外では話すことはなかったけれど、僕は彼に憧れていた。
 だが、一度だけ授業以外で話す機会があった。ある日の昼休み、僕は一人で弁当を食べようとしていた。弁当箱を開けると、カレーと白米が綺麗に半分に詰められていた。カレーの次の日に面倒くさがって、母さんがよくやる手だ。いつものようにちょうど半分の切れ目のところから食べようとすると、声が降ってきた。
「わっ!カレーだ!」
 見上げると、富田が僕の弁当箱を見て、目を輝かせていた。富田は机に前のめりに寄りかかり、「すげー!うまそー!」と言いながら、カレーを見つめていた。いかにも食べたそうだった。
「た、食べる?」
  僕は持っていたスプーンを差し出した。すると、富田はぱぁっと明るくなり、「サンキュー」と言って、スプーンを手に取った。富田は一口分のカレーを掬い上げ、スプーンにパクついた。
「ん~!めっちゃうまい!」
  富田はそのあと、2、3口食べてご機嫌にスプーンを返してきた。
「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」
 富田はニカッと笑って言うと、またグループの輪の中に戻っていった。僕はその時、自分で作ったわけでもないカレーを褒められただけなのに、なぜだか嬉しかった。
 中学2年になり、富田とはまた同じクラスだった。だが、彼はサッカー部のエースストライカーとして活躍するようになり、昼休みも練習に出ていたので教室で昼ご飯を食べることはなかった。その頃から僕はたちの悪い不良に目をつけられていた。相変わらず僕は一人だったので、標的にちょうど良かったのだろう。ほぼ毎日、誰も寄り付かないような林の中で殴られ、蹴られ、罵倒を浴びせられた。誰も助けてくれない。正直もう限界が来ていた。

 2013年12月20日。空気が刺すように冷たい日だった。強い力で押され、地面に顔面をぶつけた。唇が切れたのかビリビリとした痛みがあった。背後から気味の悪い高笑いが聞こえてくる。
「ほら、立てよ」
 背後から強制的な命令が下った。逆らえばもっと酷い目に遭う。僕はありったけの力を振り絞って、身体を起き上がらせた。鼻から液体がポトリと地面に落ちた。それは赤かった。血、そう気づくと狂ってしまいそうなぐらいの恐怖が全身を満たした。ふいに頭が上へと引き上げられる。不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がった。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてきた。不良たちは僕を見下げて笑っている。地獄だ。追い打ちをかけるように四方から足が飛んでくる。腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。顔面を汚い靴底が舐めるように這っていった。大量に血が地面に落ちた。鼻が焼けるように熱い。やばい、死んじゃう。恐怖から震えが止まらなくなった。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせる。そして、腹をおもいきり殴られた。もう限界だった。地面に膝をつき、胸の奥から吐き気が這いあがってくる。口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してきた。そういえば今日の昼はカレーだった。あの時の富田の笑顔が浮かんだ。また話したかったな。こんなことなら勇気を出して声をかければよかった。目から熱いものが零れ落ちた。汚物に混ざって消えていく。ちっとも綺麗にはしてくれなかった。ただ嫌な臭いだけが自分を満たしていく。この苦しみから一生抜け出せないんだ。そう思った途端、体の力が抜け、地面に横たわった。静かに目を閉じた。闇の中に意識が吸い込まれていく。その時だった。
「何やってんだ!」
 その声に引き戻された。近づいてくる足音が聞こえる。また立ち上がらせるのか。もう抵抗する気力さえ残っていなかった。だが、その手は優しく僕を抱き寄せた。ゆっくりと目を開くと、そこには富田がいた。
「松井、大丈夫か? 返事しろ」
 声は聞こえていたが、感覚が麻痺して返事ができなかった。代わりに涙だけが零れる。
「富田、怪我したくなかったらさっさと失せろ」
 不良の一人が言うと、富田は僕の体を一層力強く引き寄せた。
「そんなことできるわけないだろ。俺は仲間を見捨てない」
「その綺麗事が前からムカついてたんだよ。いいや、お前も遊んでやる」
 不良たちは富田に襲い掛かった。富田は僕を地面に横たわらせて一人で不良たちに立ち向かって行った。ダメだ。行っちゃダメ……。富田の背中が闇に消えていくのを見ながら僕は気を失った。
 目を覚ますと、僕は真っ暗な闇の中にいた。湿った葉っぱや木々の匂いの合間に血と腐ったようなカレーの匂いが充満する。暗さに目が慣れてきたのか、周りに生えている木々の輪郭が見えるようになってきた。首だけ動かし辺りを見ると、体中がズクッと痛みを発した。その瞬間、少し離れたところに誰かが寝ているのに気付いた。富田だった。反射的に起き上がると、再び痛みが全身を駆け巡った。脳が浮かび上がる感覚に襲われる。だが、目眩を振り払い、這うように富田の傍に寄った。
「富田」
 名前を呼び、体を揺する。だが、彼は反応しなかった。両手を投げ出して、ぐたりと横たわっていた。顔は腫れあがり、額や唇からは血が出ている。そこから流れ出た血がぽたりぽたりと地面に落ちていた。鼓動が跳ね上がって、震えが止まらない。どうしよう。彼を保健室まで運べる体力はもう残っていなかった。でも、助けなければ。一人で保健室まで行って助けを呼ぶしかない。たどり着ける自信はないが、行くしかない。身体を無理やり動かし、なんとか立ち上がった。だが、脳がうまく働かず、バランスを崩して近くの木の幹に縋りつく。手のひらに痛みが走ったが、そんなことは気にしていられない。再び手前にある木に縋りついて、前へ前へと進んだ。林を抜け、渡り廊下までの道を何度も転びながら歩く。視界が歪み、渡り廊下の輪郭が闇の中に消えては蘇るを繰り返していた。いつまで経っても闇から逃れられないようで足が震える。やっとのことで渡り廊下にたどり着いた。柱や柵を伝って、渡り廊下を抜け、校舎の中に入った。壁に縋りつき、ただ前を向いて歩いていた。廊下は真っ暗で、何も見えない。自分の息遣いと靴がこすれる音だけが静かに響いていた。辛い、誰か、誰か助けて……。その時だった。
「おい、誰だ」
 背後から声が聞こえた。振り向くと、光が目に飛び込んできた。途端、視界がぐらりと揺れた。同時に光の余韻が暗闇にゆるやかな川のように現れた。その瞬間、僕の意識は川に吸い込まれていった。
 目を開けると、薄暗い明りの余韻が視界を満たしていた。その端からぬるっと人の顔らしきものが現れた。よく見ようと目を開こうとしたが、重くて開かなかった。
「松井、わかるか?」
 声からして担任の有坂先生だった。答えようとしたら、のどが乾ききっていて咳しか出なかった。すると、腹部が悲鳴を上げる。有坂先生は僕の肩をさすってくれた。その瞬間、先ほどまでの記憶が蘇った。勢いよく起き上がる。また体に激痛が走った。有坂先生は驚いた様子で痛みでよろけた僕の体を支えた。
「富、田……富田が……」
 やっと出た声は掠れて聞き取りにくくなっていた。だが、有坂先生には聞こえたらしく「富田がどうした?」聞いてきた。話すより体が動いた。彼のもとへ。保健室を出て、廊下をぬけ、渡り廊下から林を目指した。まだ体力が回復していないのかふらふらして上手く歩けない。気持ちだけが先走り、足並みはついていくのでやっとだった。たどり着いた林の中で彼は僕が最後に見た格好のまま地面に横たわっていた。僕はよろけながらも彼の傍にたどり着いた。腫れあがった顔から出た血は、固まって赤黒い筋を引いていた。それとは対照的に唇や首筋は青白くなっている。先ほどとは違い、手は気を付けをしているようにピンとして固まっていた。
「富田」
 名前を呼び、手を握った。氷のように冷たかった。その手はピンと張ったまま動かない。ふいに肩をグイッと引かれ、後ろに転がった。富田の周りに先生たちが駆け寄る。彼の名前を皆が呼んでいた。でも、彼はビクともしなかった。僕はただ茫然と見ていることしかできなかった。
 その後、僕は親に迎えにきてもらって家に帰った。あれ以来自分がどうしていたのかまったくわからなかった。気が付くと、目の前には心配そうな両親の顔があった。家に着くと夕食が用意されていたが、喉を通るはずもなかった。自室に戻り、ベッドに横になった。だが、富田がどうなったのかが気になって仕方がなく、その日は一睡もできなかった。
 翌朝、休んだ方がいいと言う両親の助言も聞かず、僕は傷が疼く体で学校へ向かった。
 教室に入ると、皆が僕を見て驚きの表情を浮かべた。顔中絆創膏だらけだから無理もない。だが、心配して話しかけてくる人など誰もいなかった。皆、僕を見てひそひそと仲間内で話している。富田の姿はなかった。予鈴がなる前に有坂先生は教室に入ってきた。いつもの明るい挨拶はない。唸るように「全員席につけ」と言って、教卓の前に立った。一度、有坂先生と目が合った。だが、すぐに逸らされる。
「みんなに知らせなければいけないことがある。昨日……富田が亡くなった」
 死んだ? 頭の中が真っ白になった。教室中がざわついた。そして、何人かが驚愕した表情で「嘘だろ?」と呟く。有坂先生は静かに目を伏せた。教卓の上で拳をぎゅっと握りしめる。
「何でだよ…何で死んだんだよ!」
 男子が一人、声をあげた。彼はサッカー部だった。富田と仲が良かったはずだ。
「……事故だ」
 有坂先生は何かを堪えるように長い間を置いてから振り絞るように呟いた。違う。事故なんかじゃ、そう思いながらも声に出すことはできなかった。
「今日は休校になった。今日、午前10時から葬儀が行われる。うちのクラスは全員行くぞ。時間になるまで教室で待機するように」
 女子も男子もみんな泣いていた。こんなに愛されていた彼を、犠牲に僕は生き残ってしまった。僕のせいで、彼は死んでしまった。
「松井」
 そう呼ばれて顔を上げると、有坂先生が目の前に立っていた。
「お前は来い」
 僕は一人、生徒指導室に有坂先生といた。僕は教室の奥に座り、先生は入口のドアを背にして座る。入って第一声は有坂先生だった。
「驚いたか?」
 さっきの事故発言のことだとすぐわかった。だが、僕は彼が死んでしまった事実に衝撃を受けて、思考がついていけなくなっていた。小さく「はい」と答える。
「あれは上から言われたことなんだ。ちゃんとお前がやったことではないとわかってる。お前はそんなことができるような奴じゃない。だから、教えて欲しい」
 有村先生は間を置いた。
「富田を殺したのは、誰だ!」
 語尾にとてつもなく力が込められていた。有村先生の目には涙が浮かんでいた。先生はサッカー部の顧問だった。彼とは特別親しかったのだろう。だからこそその眼には悲しみよりも怒りの方が強く表れていた。殺してやる。そう言われているような気がした。恐怖が全身を埋め尽くした。恐怖に突き動かされるように僕は昨日起こったことを包み隠さず話した。だが、僕のせいだとはどうしても言えなかった。
 先生の言葉通りに彼の葬儀はクラス全員で行った。葬儀場に入ると、生徒は順番に棺と平行線上に並ぶ椅子に座らされた。色とりどりの花が並べられた祭壇の真ん中にニカッと笑った彼の遺影が飾られている。その前に木の棺が置かれていた。葬儀の前に生徒たちは皆、棺の中の彼の顔を覗き、両親に挨拶することになった。僕の番になり、棺桶の中を覗く。彼の顔は最期に見た時よりも少しだけ綺麗になっていた。血は拭き取られ、傷も化粧で隠されていた。彼の両親の前に促され、頭を下げた。二人とも憔悴した様子だった。
「ありがとうね」
 母親が僕に向かって言った。ありがとうなんて、僕には言われる資格がない。僕のせいで、僕が彼を殺したも同然なのに。
「僕のせいです。僕を助けたばっかりにあんなことに、あの時、ちゃんと伝えてれば彼は死ぬことなんてなかったのに……僕のせいなんです。ごめんなさい」
 床に頭をこすりつけて、謝った。「ごめんなさい」と何度も繰り返し謝った。
「あの子は正義感が強くて、おせっかいな子だったから……」
 母親は途中で口を押え、堪えきれずに父親の胸に縋りついた。絶望しかなかった。いっそ罵倒してくれればよかった。僕は心のどこかで言ってほしかったのかもしれない。君のせいではないと。けれども、返ってきたのは一番自分のせいだと重く感じる答えだった。
 その日から僕は自室にこもるようになった。眠れず、食事もとれず、ただただぼーとしていることしかできなかった。僕のせいで彼は死んでしまった。その言葉を頭の中で反芻し、時々涙を零した。僕に泣く資格なんてないのに、自然と溢れ出してくる。涙とともに魂も抜け出してしまえばいいのに。そしたら、僕の体を彼に明け渡して、生きてもらうことができるのに。僕が死ねばよかった。
 彼が死んでから2週間が経った。未だに僕は自室に籠って、ぼーとしていた。窓から空を見上げると、澄んだ青空が広がっていた。今の僕とは正反対だった。彼も僕とは正反対だった。僕より彼の方が皆に必要とされていて、もっと生きるべきだった。僕が死ねばよかった。静かに目を閉じた。涙が溢れた。このまま僕の命は抜け出てしまえばいい。身体もだるいし、重かった。もうすぐ楽になれる。ふいに香ばしい匂いが鼻を劈いた。カレーの匂いだった。ふいに彼と話した時の記憶が蘇ってきた。ニカッと笑って言った言葉。
「お前ん家のカレーうまいな! またカレーの時、食わしてよ」
 その瞬間、ドアが開いた。母親が部屋の中に入ってくる足跡がする。
「広、ご飯よ」
 僕は黙っていた。
「広」
 その声が意味もなくイライラする。
「もうほっといてよ。食べないから」
「何でよ? このまま食べなかったら死んじゃうわよ?」
「いいよ。僕には食べる資格がないから」
 母はしばらく何も言わなかった。だが、言葉は繋がれる。
「……彼のことは、あんたのせいじゃないわよ」
 その言葉を訊いた瞬間、僕はもう限界だった。
「僕のせいなんだよ! もう死んじゃいたいよ……」
 母は黙っている。と思った。
「ダメ! あんたは生きなきゃダメよ!」
 そういうと、母は僕の腕を引っ張って部屋から出した。少し廊下を歩いただけなのに息が切れて疲れていた。母は、僕を食卓に座らせると、目の前にカレーを置いた。カレー皿の中でサイコロ状に切られた肉がゴロゴロと存在感を露わにしていた。カレースープは茶色から光沢を帯びて部分が黄金色に輝いていた。
「食べなさい。生きるために、食べなさい」
 母は、スプーンを無理やり持たせて、カレーを掬わせた。なぜだかお腹に違和感を覚えた。お腹に穴が開いたような感覚に囚われる。恐る恐る口に入れると、飲み込めた。あの日から食べようとすると体が受け付けず、吐いてしまっていた。けれども、食べられた。生きろ。彼がそう言ってくれているのだ。スプーンにカレーを掬い、一口もう一口と食べることができた。僕はそのまま泣きながらカレーを食べ続けた。久しぶりに食べたカレーは少ししょっぱかった。
 それ以来、僕はちゃんとした生活が送れるようになった。母は、僕のために一週間続けてカレーメニューを作ってくれるようにもなってしまった。学校に通えるようになってもひとりりぼっちだったけど、なんとか卒業することができた。僕は生まれ変わることができた。そう思っていた。

 だが、人はなかなか変わることなんてできなかった。高校に入っても、僕は自分から話しかける勇気が出せなかった。そんな時、竹本が僕に声をかけてくれて、その友達の梅沢も加わり、今では一人ぼっちではなくなった。僕は彼らに合わせるために表面上は俺と口にしているけれど、結局自分は何も変わっていない。
 そして、今日が来た。放課後、僕たちは教室の掃除当番だったので、教室の隅で談笑していた。
「バシュッ、バァン!って」
 梅沢が顔面にボールが当たった僕の真似をして笑った。1限目が終わってからずっとネタにされ、笑われている。耐えかねて僕は言った。
「もういいって!」
「だって面白いんだもん。試合出てないのに顔面って……」
 梅沢は吹き出してまた笑い転げた。竹本は無表情でその様子を見ているが、微かに口角がぴくぴくしているのがわかる。
「誰かゴミ捨て行ってきてー」
 クラスの女子が大声で言った。僕は「俺が行く」と言って、ゴミ袋を手に教室を出ようとした。
「あ、広すねんなよ」
 梅沢が背後から言ってきたが、無視して教室を後にした。
 二年生の校舎の廊下を抜けて、端にある階段を下りる。中学校の時もよく顔面にボールを当てられた。かなり前なはずなのに痛みに耐性がついてしまったのか、今日は一瞬しか痛くなかった。でもまた痛くなった気がする。
「広!」
 真ん中あたりまで下りたところで背後に声がした。梅沢だとわかって、不機嫌な顔で振り返る。だが、梅沢はスーパーマンみたいな恰好で宙を飛んでいた。そのまま前のめりに飛んでくる。僕の体は押し倒され、世界の景色がひっくり返った。
「いって……」
 気が付くと、僕たちは踊り場で二段重ねに倒れていた。梅沢はすぐさま起き上がり、僕の肩を掴んで「広、怪我ない?」と呼び掛けてくれた。梅沢にもこんな男らしい面があるのかと少し驚いた。だが、さっきの姿を思い出して腹が立ってきた。
「大丈夫。ゴミ出し行かなきゃいけないから」
 僕はそう言って、手を振り払った。立ち上がって、階段を下りていく。渡り廊下を抜けようとした時、騒がしい声が聞こえた。体育倉庫の裏から聞こえるらしい。近寄って様子を窺ってみると、一人の男子生徒を囲んで、大きなガラの悪い三人が立っていた。会話はよく聞こえないが、これはまずいパターンだ。早くこの場を離れなければ。そう思った時、ひとつだけ聞き取れた。
「―と、三田ぁ‼」
 トミタ? その瞬間、あの日の光景が蘇ってきた。富田が、死んでしまう。自然と体が動いていた。助けなきゃ、助けなきゃ。無我夢中で不良を彼の周りから振り払った。すると、不良たちは僕を睨んで言った。
「誰だお前? 怪我したくなかったらさっさと失せろ」
 あの日の光景とリンクする。恐怖が体を蝕んでいった。足がすくむ。だが、負けてはいけない。グッと拳を握りしめ、全身に力を入れた。
「わかったよ。お前から始末してやるよ」
 そう言った次の瞬間、重い拳が頬を直撃する。勢いで吹っ飛ばされ、地面に倒れた。視界がテレビのノイズのようになり、不良の後ろが夜の闇に変わった。
「ほら、立てよ」
 不良の一人が髪を鷲掴みにして、僕を無理やり立ち上がらせた。そして、頬を思い切りぶん殴られ、また地面に転がった。目の前に数本の髪の毛がゆっくりと落ちてくる。地面に真っ赤な液体が零れる。追い打ちをかけるように四方から足が飛んできた。腹や背中に鈍い痛みが広がっていく。地獄の時間が長く続く。顔面を汚い靴底が舐めるように這っていった。大量に血が地面に落ちた。鼻が焼けるように熱い。恐怖に身が固くなる。それでも容赦なく襟首を掴まれ、立ち上がらせる。そして、腹をおもいきり殴られた。地面に膝をつき、胸の奥から吐き気が這いあがってくる。嫌だ。口の中からドロッとした茶色い固まりが溢れ出してきた。カレーだった。嫌だ、嫌だ。気持ちとは反対に溢れ出してくる。無力だった感覚が蘇ってくる。僕は何もできない。彼を救えない。涙が一粒、汚物の上に落ちた。その一滴は茶色い海を一瞬だけ黄金色に変えた。富田、助けなきゃ。無理やり体を立ち上がらせ、倉庫の壁に縋りついた。またノイズが入る。景色は暗闇と夕暮れのオレンジを交互に見せる。いつの間にかかなりの時間が経ってしまっていた。急がないと。逸る気持ちに足がついていかず、何度も転んだ。そのたびにノイズは強くなり、過去の恐怖が余計に力を入らなくさせた。やっとのことで渡り廊下にたどり着くと、柱や柵を伝って、校舎の中に入った。もうすぐだ。安心したからか目眩がひどくなる。廊下の壁に縋りつき、なんとか自分を保った。途端、景色がぐるぐると回りだし、黒とオレンジのマーブルを作り出した。ダメだ。富田を助けないと。保健室にたどり着かないと。そう思った瞬間、回る視界の中に保健室の文字が見えた。あった。衝動的に体が動き、流動する視界ともとに体が崩れた。だが、視界の端で保健室という文字が動きながら存在を露わにしていた。そして、ゴッと鈍い音とともに意識が消失した。

「広?」
気が付くと、竹本たちが心配そうにこちらを見ていた。
「思い出したって本当?」
 瀬古先生が心配しつつ訊いてきた。
「はい、トミタって声が聞こえて、やられてて、なんか……助けなきゃって思って……」
「普段のお前だったら逃げそうなのにな」
 竹本が真っすぐに僕を見て言った。その視線が見透かそうとしているように思えて僕は目を逸らした。だが、気が変わって少しだけ話したくなった。
「……あの、昔、いろいろあって……殴るのも殴られるのも嫌なんだよ。見過ごすのも嫌だっただけだ」
 カッコつけすぎた気もするが、今はこんな言い方しかできなかった。すると、三田君が顔を上げた。
「僕は、広先輩はすごいと思います。思ってても実際にはなかなかできることじゃないし……広先輩は僕のヒーローです」
「あ、ありがとう」
「なんかダジャレみたいだね」
 梅沢が空気を読まないで口走った。それを受けて三田君の顔は真っ赤になっていた。竹本が無言で梅沢を小突いた。僕は思わず吹いてしまう。
「ねぇ、松井君。結局、記憶喪失になった原因は何だったの?」
 瀬古先生が聞いてきた。
「たぶん精神的ショックもあったんだと思いますけど、直接的な原因は……先生の顔面キックです」
「ええ⁉」
 瀬古先生は誰よりも大きな声で驚いていた。
「ごめん! あれは事故だったのよ」
 瀬古先生は申し訳なさそうに謝ってきた。僕はそれを「大丈夫です」と言って許した。
「じゃっ、帰りますか」
 竹本が入口に向かって歩きながら言った。梅沢は「おう!」と言って、その後に続く。僕もベッドから降りて二人の後を追った。そして、後ろにいた三田君に呼び掛ける。
「三田君も一緒に行く?」
三田君は呼ばれると、笑顔で「はい!」と答えた。その笑顔がなんだか彼に似ているような気がした。
 僕らは保健室を出て、横並びに廊下を歩いていた。ふいに鼻孔にカレーの匂いが広がった。じっくり焼かれた肉の香ばしい香りが空腹を刺激する。僕は呟いた。
「さっ、帰ってカレー食べるか」
「またカレーかよ」
「このカレー星人」 

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