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0の0乗 〜0の私でも存在できる理由〜

自然数の0乗は1、そして0の0乗も1

0から1

少し前の話になるが、お笑い芸人のハライチとオードリーのテレビ番組をみていた。

ネタ作り担当がネタを作らない相方に詰め寄り、

「俺たちはゼロからイチを作り出したんだぞ」

と声を荒げていた。たしかにあのハライチの「~なやーつ」に代表されるノリボケ漫才やオードリー春日というキャラクターは唯一無二だ。

ゼロからイチを生み出す。彼らの熱量を見る限り、それはきっと私が想像するよりも遙かに辛く苦しいものなのだろう。

誰かが生み出してくれた1

とかくいう私はどうか。少なくとも大学院時代、会社在籍時、また今の独立準備期、それぞれゼロから何かを生み出したわけではない。

学術研究も独自性を追い求めるとはいえ、独自性を生み出すのはこれまでの既往研究があってこそだ。会社の仕事だって、これまで数多の社員が積み上げてきた業績があるからこそ成立する。

今は畑をしたり、農家民宿開業の準備を進めているが、畑なんてものはもう何百年とこの国に存在し、農家民宿も日本中に先駆者たちがいる。

やはり誰かが生み出してくれた1のおかげで自分は何かできるらしい。

私=0

こうやって考えていくと私は「0から1を生み出した」わけではない。

つまり、私は誰かが作ってくれた1を扱うことはできても、私自身は何においても0なのだ。

何においても0の私がいる。

私を私たらしめる要素をひたすらに足し算していっても、その答えは0なのである。

試しに、掛け算してみたらどうだろうか。あいにく残念ながら0×0=0だ。0に0をn回かけて続けても、0であることに変わりはない。

やはり、0には何もできない。

自然数の0乗、そして0の0乗

だが、一つ例外がある。私は中学時代、数学の教員にこんなことを教えてもらった。

自然数の0乗は1、そして0の0乗も1

きっと0から1を生み出せる人はそうはいない。
けれども、0の0乗が1ならば、0は存在しているだけで1を生み出す可能性を秘めているのだ。

なぜなら、0を0回掛けるためには、0自身が掛けられる1という存在を連れてくるからである。

だからこそ、0な私でもこの世界に存在していい。0の0乗は私をこうして優しく慰めてくれるのだ。

0は無ではない。0は0として存在し、1を呼び込む力がある。

ーー
おそらく最後の段落で「ん?」となった方も多いかもしれません。

今回、この記事を書くにあたって、いろいろ調べてみると

0の0乗=1は完璧には定義できない

ということを知りました。つまり、0の0乗=0と考える学者もいるそうな。

皆さんはどうお考えになりますか?今日の記事はこのページ(クリックしてリンクへ)をヒントにさせていただきました。

さて、私個人としては0の0乗が0と言われてしまうと存在意義を失ってしまいそうなので、0の0乗は1ということにしておきます。

というわけで、文系とはいえ好きな科目が数学だった私の思考実験でした。

本日はこれにて!
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