目の前のクソ野郎もムスリムだったなら
あのクソ野郎と私は、優しさを少し訝しみながら生きていく。
「だって、ムスリムだからね」
もう7年も前になるが、私がトルコに留学していたときのこと。トルコの人々は何かにつけて私を助けてくれたように思う。
一人でとぼとぼ広大な畑を歩いていると車に乗せてくれたり、道迷っていたら一緒に迷ってくれたり。思い出すと本当にその場面が沢山浮かんでくる。
いつの日だったか、ルームメイトのトルコ人に、
なんてふと口にした。すると、
と彼は言う。そうか、優しさは神様のおかげなのか。優しさという性質が個人に起因すると思っていた私からすると、思いもよらない回答である。
優しさに疑う余地のない理由が与えられるのは、20年間の人生でこれが初めてだった。
目の前のクソ野郎もムスリムだったら
あれから7年が経ち、しかも、日本という国でその7年を過ごした。
私なりに様々な人と出会い、そして中には「なぜこんなにも他人を思いやれないのか」と感じざるを得ない人にもいた。誰かのことを異常なまでに嘲り、罵り、そして自慢話ばかりするような奴だ。
そんな奴と出くわす、あの日一緒に道に迷ってくれたトルコ人の顔が頭に浮かぶ。そして、
私自身もムスリムではないし、もっとも〜教徒なんていうほど宗教心があるわけでもはない。正月に神社に詣でてるだけで、心満たされるような呑気な輩だ。だから、トルコ人のように宗教、もっといえば神の存在が心の奥にあるわけではない。そのため、クソ野郎も私も、この点では大差ない。
理由なしで人に優しくできるか?
「人に優しく」と物心ついたときから教えられてきた。
幼い頃、「なんで人に優しくしないといけないの?」と私の周囲とオトナと呼ばれる存在に聞いてみると、彼らはどこかムッとしていたように思う。
それはきっと、この日本という国では、優しさを理由や掛け値なしに与えることが美徳とされるからだろう。私もオトナになった限りは理解できなくもないが、実際には、優しさに理由や対価を求めてしまいそうな自分もいる。
だからこそ、漠然としているようで、実は極めて具体的かつ絶対的な理由「ムスリムだから」で誰かに優しさを与えられる状況が、もはや神々しく感じられるだ。もしかするとそれは本当に神による所業なのかもしれない。
「私だから」と言ってみたい
あのクソ野郎と私は、優しさを少し訝しみながら生きていく。つまり、「ムスリムだから」というような理由で、何度も何度も誰かに優しくできるなんてことはこの先もずっとないということだ。
それでも、一生に一度「私だから」という理由で、誰かに優しくすることができたなら。
ムスリムのトルコ人にも「私も優しくないわけではないよ」と少し自信を持って言えるような気がしている。
ーーー
先日「トルコに留学していたときに一番衝撃を受けたこと」を宿に来てくれていたヘルパーさんに尋ねられまして。
ふと思い返してみると、これが一番だったかなと思います。
「優しさに疑う余地のない理由が与えられた」
という経験は、どんな美味しい料理や景色よりも衝撃的だったように思います。
★チャイグラスで紅茶でも飲みませんか?
いただいたサポート分、宿のお客様に缶コーヒーおごります!