見出し画像

ポップカルチャーから政治への反論と愛を込めて

政治を語るとき、ポップカルチャーはどこか比較劣位に置かれてきたかもしれない。
それは例えば「たかが音楽で世界は変わらない」「政治は政治家にまかせておけ」といったような言説である。

かくいう私にとって一番身近なポップカルチャーは観光であるように思う。もちろん日々、音楽やアニメを楽しんだりもするが、一番心躍るのは「次はどこに行こうかな」なんて夢想するときだ。私にとって観光は私自身を形作り体現するものでもある。

ただ観光というものも例に漏れず「たかが観光」などと、やはり小馬鹿にされる場面が多い。 

先日観光で訪れた台湾。2024年1月上旬は次期大統領選で台湾中が熱かった。それになぜか非常に心動かされた。
無論、現地語を話せない私が行う「たかが観光」で理解できたことはごくわずかだろう。だから、そんな私を嘲笑する奴がまたいるのだと思う。

「周縁化されてきたポップカルチャーを中心に置いてこそ見える政治がある」

5年前、大学院で出会ったとある教授は言った。たとえばいくら韓国と日本との間で、過去の大戦や植民地政策についての政治的な論争が巻き起ころうとも、それぞれの若者はそれぞれの国の音楽食事を心から楽しみ、それを求めてにも出る。

周縁化とは、文字通り、とある事象が中心にではなくその周りに配置されていく様を指す。彼曰く、学術界でもどこか「遊びなんかを研究するな」といった雰囲気は強い。その点、彼は反対に、外側にあるものを芯として議論を組み立て直す重要性を殊更に主張する。

すなわち、ポップカルチャーには政治を超える力がある。

観光をする私は台湾で、有り余るほどの選挙への熱を感じた。街のモニター、バス停、そして食堂で麺をすする若い女性もブラウン管でその情報を追っている。そんなテレビはずっと大統領選の特別番組ばかりだ。台湾出身の知人に聞くと、大統領選の時の台湾は毎度こうなるらしい。
隣国とはいえ、私は台湾がかくなる状況にあるとはつゆとも知らなかった。自分の国がどうなっていくのかという彼らの議論はもはや対岸の火事、いや地球の裏側とも思える火事であった。

それでも帰国してからはどこか大統領選の結果をハラハラしながら見守っていた。それはたかが観光と言われようとも事実として台湾を旅して、その熱気を垣間見たからだと思う。

思うに、人の熱気は大局的に感じられるものではない。つまり、個人の麺をすする音こそが私に熱気を伝えてくれるのだ。
食堂で麺をすすりながら小さなブラウン管見つめる女性。その視線が私の関心を政治に向かわせる。一義的な政治の重要性を声高に叫ぶ弁者の声よりも。もしかすると観光も音楽よろしく誰かの熱気に気付くためにあるのかもしれない。

おそらく一義的な政治を狂愛する人は楽しげな文化的交流を政治とは呼ばないだろう。

だが、音楽は、食は、観光は人と人を交わらせる。そのポップカルチャーと呼ばれる事象を、そしてそこから生まれるうねりや言論を政治と呼ばずして、なんと形容できようか。

以上、ポップカルチャーから政治への反論と愛を込めて。

いただいたサポート分、宿のお客様に缶コーヒーおごります!