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バランスボールを置くこと 〜私は旅の「偶然」を破壊してしたのか?〜

宿を営んでいると、偶然の存在に唖然とする。
たとえば、お客様が実は庭師だったり、助産師だったり。辞書的にその職業の存在を知っているだけで、会ったことなど一度もない。俗的に考えれば、ナンパした異性が庭師や助産師である確率はおそらく極めて低いだろう。そう思うと、やはり偶然とやらはとても貴重なもので、一種のロマンすら覚えざるを得ない。

「旅の偶然をロマンで終わらせたら研究者はダメだよね」

大学院時代、とある先輩はそう私に言った。もう4年も前の話だが、なぜだか妙に心に残っている。というのも、私も彼も観光社会学なる旅や観光を研究する学問に傾倒していたからだ。
さもするとそんな学問分野では偶然を科学しようとする輩たちが耳慣れない言葉を使って議論する。その一つがcontingencyだ。
contingencyの逐語訳は「偶然性」「偶有性」であり、延いては「不慮の事故」という意味もある。あるアメリカ人にcontingencyのイメージを聞くと「交差点で知らない車同士が衝突するみたいな感じ」と言っていた。このことを鑑みると、割と旅における見知らぬ人や景色との出会いは交通事故に近い部分があるのかもしれない。
そして何より私自身がcontingencyすなわち偶然(性)を学問としても、自身の旅行経験でも面白がって生きてきた。

一方で自身が宿業という旅行を受け入れる・売る側に立ってみると、そこでの偶然が案外人為的なものであるものに気づく。当の私も「どんな人を狙うか?」すなわち「その人はどんな職業?居住地?家族形態etc」といった予想から宿のお客様を絞り込む。そうした取組は一般的にマーケティングと呼ばれている。それを長くやればやるほどお客様の属性は似てくるし、狙っていないお客様は本当に来なくなる。
そのため、私はマーケティングをすることで偶然を破壊している気分になる。

では大学院に戻って観光社会学を頼ればいいではないか?と思ったがそうでもない。先日、友人にあの先輩の話をした。彼女は言う。

「偶然とかロマンを分析されちゃうと興醒めしちゃうかも」

あぁ、マーケティングをだろうが、観光社会学だろうが私は偶然を破壊し続けてきたのかもしれない。

大学院生の頃から、うすうす気づいていたのだ。偶然を研究すればするほど、必然性が見えてくることなど。そして必然性からアプローチして、それを偶然のように見立てる人たちがいることにも。
そのためこの二つは一見違う分野にみえても、極めて親和性の高いものなのだ。院生時代の私はマーケティングという言葉を毛嫌いしていたし、マーケティング愛好家はどこか社会学を机上の学問として小馬鹿にしていたように思う。でも本当は双方から歩み寄ることでより高次な議論ができるはずだったのだ。

とはいえ、高次な議論ができるようなればなるほど、偶然は破壊されていく。すなわち、在りし日の私が魅了された偶然は、私自身の手によって抹殺されていくのだろうか?

ウチの宿にはバランスボールがある。それはもともと単なる私の私物で、来客時には物置に隠していた。しかしあるときチェックイン時刻前にやってきた子どもたちが、片付け損なっていたそれを大玉転がし宜しく遊び始めた。気が付くと小一時間バランスボールで遊んでいる。
その後、思い切ってバランスボールを客間に置いてみた。別の日、そしてまた別の日と、子どもたちそれぞれがバランスボールに夢中になる。なんなら一緒に遊ぼうと私にせがむ子もいる始末である。

親はこの旅行で子にどんな経験をさせたかったのだろうか?と思いを馳せる。しかし同時に、親の思惑はどうあれ、もしかすると彼らにとって旅の最大の思い出はバランスボールになるかもなとも思ってしまう。なにせ子どもらはとても楽しそうだからだ。下手すると、近くの海で遊ぶことや食事なんかよりもなお。

今日も私はバランスボールを少し目の付きやすいところに移動させる。
これは偶然か必然か。私にはまだ分からない。

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つまり、こういう状況です(この子ママさんが撮影してくれました)

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