ほどよい孤独を愛して
「一人、離島で暮らしていて寂しくないんですか?」
寂しくない日がないといえば嘘になるが、質問者の心配ほどは寂しさを感じてはいない。私はこの理由を島と都会の孤独の違い、すなわち「絶対的孤独」と「相対的孤独」の差にあると考えている。
どうやら都会では他者によって孤独が可視化されるらしい。
テクノロジー万歳
寂しさを直接家族や友人とどの程度会えるかという視点で議論するならば、無論、直接会えない人が多いのは確かだ。大阪生まれ大阪育ち私の場合、友人の多くが地元大阪か就職後に東京で暮らしている人間が多い。無論、親は大阪にいる。確かに寂しいといえば寂しいだろう。
ただ島暮らしの不安からか前職での反省からか、移住後は何だかんだ月に1度程度は親と電話をするようになった。もちろんそのペースにないときもあるが、野菜を送ったり、先日は島から甘夏を送ってもみている。こんなやりとりをしていると、なんとなくだが会社員時代に大阪の実家で暮らしていたときよりも、親とのコミュニケーションが深くなったようにも思う。
友人らも会えてはいないが、「ご時世」の波と相まってオンライン飲み会も定期的に行い始めた。また、全く連絡をとっていなかった旧友が日々の発信を見て、「落ち着いたら遊びにくねー!」なんて連絡をくれることも何度かあった。そうした連絡は寂しさなんかを忘れてしまうほどに嬉しいものだ。
このように考えていくと私は「繋がり」という面では離島暮らしだからこそ増加しているし、それが直接会えない寂しさを紛らわしてくれているのかもしれない。
地元コミュニティでの交流
さて改めて直接的な交流について言及したい。無論、島での地元住民との交流はご想像通り、濃い。畑作業をしているとポケットのみかんをくれたり、急に玄関のドアが開いたと思えば「唐崎君、おるー?」という声が聞こえてくる。
大阪生まれ大阪育ちの私がこの距離の近さや詰め方に慣れるまで時間がかかったことは事実だが、今となっては自然発生的な交流がない都会の生活よりは100倍濃密な環境にいるとは思う。都会での人と人との交流はラインやSNSで呼びかけたり、そもそも自分に積極性がなければ生まれない。
相対的孤独と絶対的孤独
もし寂しさの原因を探るとすれば、「孤独」ということになるのだろうか。もちろん私には一人の時間もある、すなわち常に誰かとつながっているわけでもない。もはや一人の時間の方が多いともいえる。
ただ、島での孤独と都会の孤独には大きな差がある。つまり、島での孤独は文字通り「独り」である。誰とも話したくないときは、畑作業をしながらラジオを聴いたりしているのだが、本当に誰とも会わないことが多い。いうなれば、これは絶対的孤独であり、過疎地の特性を島はいかんなく発揮している。一人になりたいとき、本当に一人になれるのが島のいいところかもしれない。
この点から考えると、都会での孤独はきっと相対的なのだ。誰とも話したくなくても仕事やら学業やらで街を歩けば、楽しそうに話すカップルが、子と手をつなぐ家族連れが、箸が転んでも笑い続ける学生たちがいる。彼らと自分を否が応でも比較してしまう。そうしていくうちに、一人そこで佇む自分が異常な存在にも思えてくる。どうやら都会では孤独が他者によって可視化されるらしい。だからこそ、都会で一人になるのは難しい。
ほどよい孤独を愛して
島民と面と向かって話したり、親や友人と電話したり、はたまた本当に「一人」でラジオを聴いているときもある。私にはこの「一人」の時間は誰かといるときと同じくらいに必要だし、大切に思えてならない。そんな一人の時間があるからこそ気づくことがあったり、人目もはばからずくすっと笑ってみたりできたりもする。
そんな一人の時間でに感じるのは寂しさではなく、一種の安堵感でもある。もしこの感情に名前を付けるなら「ほどよい孤独」がいい。
確かに島暮らしによってできなくなったことも沢山ある。他方で、孤独を自由に選択し、「ほどよい孤独」を謳歌できることは一つ島暮らしの良さとして特筆すべき点と言えるだろう。
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島ではインターホンがあっても使われてない説。
というわけで本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。
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