自由帳は本当に「自由」なのか?
自分は「自由とは何か?」を議論できると思っている人へ。
それ、単なる自己満足じゃないですか?
自由帳使いますか?
少し前だが、ふとネットニュースを読んでいると
「自由帳メモ術」
なんていう記事を見つけた。
記事が言うには、無地の紙を使えば、頭が整理しやすくなるという。
これまで罫線ノート(いわゆる横線の入ったよくあるノート)、方眼ノートを愛用してきた私は、自由帳についてはチャレンジをしていこなかった。
とはいえ、ただ何となく「自由帳でメモ取ってる、ってかっこよくない?」と思ったバカな私は自由帳を手に取り、レジをくぐったのである。
「自由」帳とは言うけれど
実はというと、これについては、3日もしないうちに諦めた。
書き終えたメモを見ると、非常に読みづらいのだ。
新進気鋭な私の文字は右斜め上を目指して見えない坂を上っているし、文字の大きさも不揃いである。
たしかに真っ白な紙の上では、私はまさしく「自由」に何を書いてもいい。
挿絵を入れようが、極端に大きな文字を加工が、すべて私に委ねられている。
この解放感は私の足かせを外したかのように見えた。
しかし、自由帳の自由が私にもたらしたのは、全体としての不調和だったのである。
足かせと靴
つまり、罫線にしろ、方眼にしろ、このような私の自由を制限する存在が、私に調和をもたらしていたのであろう。
つまり、罫線や方眼は足かせではなく、靴だったのだ。
靴は確かに足からすれば暑い・重いといったような苦行を迫る。
しかし、それは歩く・走るというときには、私たちのこれ以上ないパートナーとなるのだ。
制限がもたらす威力は、制限がなくなってからしか分からない。
すなわち、小石を踏んだ痛みは、靴を失ってからしか気づけないらしい。
再度、罫線にしたがってメモをとってみると、私の文字は調和を取り戻した。
私の自由はやはり制限のもとにあったのだ。
「自由とは何か?」という問いを問い直す
自由の反対語として考えられる「制限」という言葉。
制限があるからこそ、快適な生活を営めるということもある。
つまり、自由だけでは、生活というものは成立しないのである。
かといって、制限ばかりでも息苦しい。
だからこそ、自由とは何か?という問いの難しさは、自由と制限の二分法では論じきれない部分にあるのではないか。
自由を問われたときに、自由を制限の反対語として思考を開始しては、この「制限がもたらす心地よさ」にまで考えが及ばない。
だからこそ、「自由とは何か?」という問いではなく、「自由を自由足らしめるものは何か?」という一歩引いた目線が必要なのではないだろうか。
それが私にとっては罫線であり、方眼であった。
今の所、自由帳は自由であるとは言い切れない。
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「自由とは何か?」はもとよりですが、「社会とは何か?」「政治とは何か?」という問いは一見格好良いのですが、どこかとっつきにくいもの。
他方でこのような議論が好きな人もいます。
私自身ももともとはその一人で、大学院でこのような問いを議論する場面もありました。
それが度を過ぎて、どこか「こんな難しい問いを議論できる自分ってカッコいい!」という単なる自己満足に陥ってしまうことも多々ありました。
今思うのは、このような問いは大切ではありますが、議論したい人だけが議論しても仕方ないということ。
だからこそ、「~とは何か?」という小難しい問いは、より多くの人が議論できるように常々問い直す必要があると思うのです。
私のnoteがどれまで影響があるかはわかりませんが、まずは身近な人と意見交換ができるように、このような記事もたまには投稿していこうと思っています。
というわけで、本日はこれまで!
ご清読ありがとうございました!
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