辞書を編むように、先人の知恵を紡いでいきたい
言葉で学んで、目と体で確認できる時代へ
「目で盗み、体で覚えよ」を問う
少し前に、数年間は客前に立てない板前の修行に意味があるかなんてことが話題になった。長い修行はまさしく、なんとか先人の技術を目で盗み、また数少ない実際的な修行をもって体で覚えよということだろう。
「目で盗み、体で覚えよ」
私自身はこれに対して、異論はない。確かに五感でしか理解しがたいものもあろう。
他方で、いくら言葉で理解しがたいとはいっても、それは最大限言語化されるべきであるとも思っている。
なぜなら、これからの時代は「目で盗み、体で覚える」対象がいなくなっていくからだ。
唐辛子栽培と感覚論
実も私も今、唐辛子・香川本鷹という伝統野菜を丸亀市の離島で生産しており、いわば修行中の身である。
私に畑仕事を教えてくださっているご夫婦はもう80代後半。しかも、島でプロとして唐辛子の生産・販売をしていたのは彼ら二人だけという状況にある。
ただ本人たちも言うように、失礼承知で書けば彼らは「もういつ死ぬか分からん」年齢でもあるのも確かだ。
彼らが板前修業のような厳しさを私に投げつけることはないとはいえ、やはり「葉っぱ触って、葉っぱの色見て」といったような感覚的なアドバイスは少なくない。
勘の悪い私のあがき
さて、実際、このような感覚的なアドバイスだけでは、何がどうなっているのか?また何をどうすればいいのか?が分からないのも確かだ。勘が鈍い私にとっては、言語化されていない情報の意図をくみ取るのは至難の業である。
そのため、畑に一緒にいるときは、なるべく
「この葉のパリパリな感じがベストなんですか?」
「確かにあの唐辛子とこの唐辛子では葉の色の濃さが違いますね」
思ったことをなるべく口にしながら、彼らの言わんとすることが何を指しているのかを確認するようにしている。そういう会話をしていると、
「そうそう、パリパリがええっちゅうこっちゃ」
と同意が聞こえてくることもあれば、
「ちゃうがな、濃さの話やなくて、葉の外側が丸まってきとるやろ。これは水不足のサインで・・・」
と意思疎通できていなかったことに気づき、はたまたプラスの情報を得ることもある。
そりゃ、”パリパリ”も”濃さ”もまだまだ感覚的な部分が多くあるが、それでも”パキパキ”と”パリパリ”は異なるし、葉の濃さという感覚がどのような場面で重要となるのかを知ることは一つの栽培目安になる。
「目で盗み、体で覚えよ」のこれから
実際、質問されるご夫婦からすれば、このような感覚論をいちいち確認されるのは面倒かもしれない。
とはいえ、私には言語化しなければならない理由がある。
彼らがいなくなったときに、振り返る情報が必要なのだ。
先人たちが沢山、そしてどの世代にもある程度均等にいる時代なら、別に言語化する必要はないだろう。その都度、目で盗み、時間をかけて体で覚えればよいのだから。
でも、私の置かれている状況は違う。「目で盗めない、体で覚えても確認できない」時代が遠くないうちにやってくる。
なんなら、これはきっと私だけでなく、日本各地で起こりうるのではないか。
だからこそ、ある種、辞書的にその感覚を言語化しておくべきだと私は思う。言葉の意味が分からないときに辞書を引くように、感覚に迷いが生じたときに頼る何かがなければ、私は今後栽培に関して右往左往してしまうだろう。
ご夫婦の感覚を言語化することで生まれる辞書。これには、
「言葉で学んで、目と体で確認する」
という有様を提示してほしいと思えてならない。
ーーー
もっといえば、
葉がパリパリしないのは窒素不足かも
厚みが足りないのは、根がカリウムを吸収できていないのか
といったように科学的な知見をもって、彼らの感覚をより精緻に確認していくこと大切なんだろうなと思います。
長年の感覚論と専門知が融合することほど、力強いことはありませんから。
というわけで、本日はこれにて。
ご清読ありがとうございました。
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