体感寿命で100年生きたい。 ~人生100年時代に思うこと~
ズバリ聞きます。
「いままでの人生、長かったですか?それとも、短かったですか?」
私の25年の人生は今のところ、「とても長い」です。
もう25歳ではなく、まだ25歳なのです。
人生は60年だった
人生は長いらしい。
私は今25歳。人生100年時代の今、私の人生はまだ折り返し地点にすら到達していないのだ。
だからこそ、私がどう考えようと、きっと人生は長いのだろう。
他方で、遡ること70年前。1950年の日本人の平均寿命は内閣府の報告によると
女性が61.5歳
男性が58.0歳
であった。
「人生100年時代」なんて言葉にも違和感を覚えないようになってきたが、ほんの70年前までは人生は60年だったのだ。
私の人生だって、あと5年で折り返し地点の時代があったということだ。
月日の流れは人それぞれ
どうやら年を取ると、月日の流れが早く感じるようになるらしい。
「2018年なんて、昨日のことみたい」
といったところだ。
私自身はというと、幸いにも、今のところ、月日の流れについては、とてもゆっくりだ感じている。
この記事を書いている今、私は25歳なのだけれど、自分の感覚からすると
「俺ってまだ25歳なのか」
というくらい、人生が長い。
特に20歳からの1年1年は、非常に長い。
「20代なんて、一瞬よ」
と多くの人が私に助言をくれたが、助言むなしく、ようやく5年が経ったという惨状を報告しようと思う。
時間だけは何人にも平等に与えられているのに、その感じ方には差があるのだから不思議でならない。
体感寿命
ここで私の造語をご紹介したい。
体感寿命
つまり、「人生早いわぁ」と嘆く80歳と、「人生長いわぁ」と唱える60歳では、体感的には60歳の方が人生を長く感じているのではないかということだ。
60歳にして、80年分を生きたような気分でいると言わんばかりに。
この理論で行くと、私の場合も、「もう25歳」だと嘆く同い年の人間よりかは、私は体感している人生が長いのだと思う。
となると、体感する人生が長いのなら、別に長寿にこだわる必要もないのかなと思えてくる。
事実、私の父の家系は、いわゆる「早死」家系だ。このご時世に、弱冠60歳前後で、この世を旅立っていく親戚が多い。
私もその血を受け継いだ以上、60歳くらいで死んでしまうのかもしれない。
体感寿命で100年行きたい
とはいえ、
「100年生きたいですか?」
と質問されたら、なんとなく「そんなに長くなくてもいいのかな」と思えてくる。
全く根拠はないのだけれど。
もしこのまま体感寿命が長い人生が続くなら、私は100歳を迎える頃、150年分くらいの人生を味わっているのかもしれない。
150年となると、2020年から遡ると1870年。
明治の新時代が到来し、「散切り頭から、文明開化の音がしている」くらい前の話だ。
そこから大正・昭和・平成・令和を全部見ていくことを考えると、少し気が引ける。
そのため、もし私が人生を100年生きるなら、体感寿命で100歳くらいが丁度良いのかもしれない。
体感で100歳になるとき、私は何歳なのだろう。
何歳かは分からないが、できる限り若い間に、その感覚を味わえたらいいなと思う。
それが実現できたらば、突然お迎えがきたとて、悔いなく死ねる気がするのだ。
そんなとき、お迎えは霊柩車ではなく、フルフラット3列シートの高速バスを手配してもらえれば、私はあの世へ、もっと気兼ねなく逝くことができるだろう。
ただ、今のところ、まだまだ送迎バスは必要ないと感じている。
体感的にも、私みたいな若造はまだバスには乗らずに、地道に歩いて、もっともっと長く人生を楽しんだ方が良さそうだ。
ーーー
島に来てから、とても「死」を意識することが増えたと感じています。
それは単純に島にお年寄りが多いという話ではなくて、
生魚を殺して食べたり
育てている作物が風でへし折れたり
バケツに張った水に、虫が何匹も飛び込んでいたり
と、ふとした瞬間に「死」を感じるのです。
これまではお葬式くらいでしか、死を感じることはありませんでした。
死が組み込まれた日常を生きる経験は、きっと私の思考をより深めてくれるのかなと感じています。
それではお読みいただきましてありがとうございました!
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