ナスと私とセンチメンタル
「ナスも人間も干からびるときは一瞬だな」
夏野菜の終わり
すっかり秋めいてきた今日この頃。
ずいぶん、朝晩の冷え込みを感じるようになってきた。
畑に植えていたナスやトマトといった夏野菜もそろそろ役目を終えようとしているのか、その青い葉にもくすみが見えてきている。
今や夏野菜とはいっても、ハウス栽培という技術のおかげで、年がら年中口にすることができる。
他方で、露地で夏野菜を栽培してみると、やはり夏野菜は夏野菜なのだなと、その萎れていく姿に季節を感じるといったところである。
切って、干す
それでも日本の気候区分では暖地にあたる私の島は、いまだにナスや唐辛子といった夏野菜が収穫できる。量が減ってはいるものの。
せっかくの好条件に恵まれているので、本格的な冬に備えて、干し野菜を仕込むことにした。
えらく事を大きげに話をしてみたが、基本的には切って干すという動作である。
切られたナスはあれよあれよと縮んでいき、もう5日もすれば、元の大きさを思い出せないほどに干からびていた。
干からびるのは一瞬
ナスを干している間、
「ナスも人間も干からびるときは一瞬だな」
と感傷に浸ってみたりもした。浸ってみたというよりも、浸らざるをえないくらいにナスは急速に干からびっていたのである。
私自身が受けたパワハラが始まったのも、確か昨年の秋口だったように思う。
始まってしまえば、みるみるうちに白髪は増えるし、口内炎はできるし、そして休日のやる気さえも削がれてしまった。
その時の私は、今目の前で肩身狭く干からびているナスと何ら変わらなかったかもしれない。
こんなセンチメンタルな私でも、強がりを言わなければならないのなら、
「ナスは全体の93%が水分らしく、70%の水分量を誇る私はナスよりも干からびにくい」
ということだけは主張しておこうかと思う。
ただ、ナスだろうが、人間だろうが、干からびるときは干からびる。
誰かに戻してもらう
干からびたナスをせっかくなので試しに味噌汁にいれて、戻すことにした。
そうすると、案外、元の大きさを思い出せるくらいにはなってくるものだ。
味や触感も生の時とは違ったものがある。汁をよく吸ったナスはこれはこれで新たな美味しさのように思う。
干し野菜の作り方を教えてくれた方いわく、野菜は干すと栄養価が上昇するらしい。
なるほど、干からびるというのは死を待つというのではなく、何かを蓄えたり、生み出したりするというわけか。
だとすれば、人生において一度干からびてしまったというのも、長い目で見れば何かしらの意味を持つということだろう。
ただ、一つの欠点がある。
干からびたナスは、人間の手によって水分を与えられ、「戻されなければならない」。
干からびたまた人間も然りである。
だからこそ、乾き切ったナスをみていると、
「結局誰かの手を必要にするのだから、人間もナスも一緒だな」
と感傷にまた浸りたくなってきた。
ーーー
ナスは水分不足陥ると「ぼけなす」といって、皮のツヤを失ったものが出てきます。食感もあまりよくありません。
ナスという作物は干そうが干さまいが、畑にいるときから誰かの手を必要としているようです。
というわけで、本日はこれにて。
お読みいただきましてありがとうございました。
ちなみに、干し野菜の作り方はこちらの方に教えていただきました↓
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