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それはおむすびであって、おにぎりではない

おむすび、なんかデカくないですか?

とある朝、宿の客は私に言った。高松から昨晩来宿し、これから近くの山を登るという彼女らの昼食作りを手伝っていたのだ。
そして、たしかに机の上には、明らかにサイズの違うおむすびがある。

実はというと、おむすびという言葉はしっくりこない。私が生まれ育った大阪では、米飯を丸ないしは三角に成形したそれを大抵、おにぎりと呼んでいたからだ。

ただ基本的に現在私が暮らしを営んでいる香川では、おにぎりはおむすびと呼ばれている。そのため、香川の高齢者たちは若い私に

「お前ぐらいの年やったら、うどん屋行ったら大盛りとむすびは取らないかんやろ」

と告げる。昔の男はおむすびをむすびとよぶのかと思った。そして同時に、さすがにそんなに炭水化物ばっか食えねえよ心の中で叫んだのも確かである。

私は母のおむすび、いやおにぎりが好きだった。それは、もしかすると彼女の手から謎の旨味成分が出ていたからなのかもしれない。それともその美味しさこそを愛情とでも呼ぶのだろうか。

そのせいか、かねてより自身が作るおにぎりはいつもなにか物足りない。それは具を豪華にしようが、塩味を強くしようが解決できない問題なのだ。

ただ今思うと、それは味や愛情云々の前に、小ぶりで食べやすかった。 

「お客さんの手より5センチは大きいですかね、僕の手」

母は手に山盛りのご飯を掴んでいた。私もそれに倣う。さもすると、当たり前だが母のおにぎりより大きなおにぎりができる。きっと今、母の手も私の手より5センチもしくはそれ以上小さいだろう。

つまり、いつの間にか祖母や母の手は、私の手より遥かに小さくなった。いや、私が大きくなったのか。

客が作ったおむすびは、どこか昔見たおにぎりに似ていた。
ただそれはおむすびであって、おにぎりではない。

そう思えてならないのは、きっと私にとってのおにぎりが未だに母の握った少し小さなものであるからなのだろう。

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