見出し画像

分かり合えなくても、分かち合うことはできる ~「ねじれの位置」を目指して~

私とあなたは「分かり合う」ことができるだろうか。

私はこれまで、あなたと「分かり合いたい」「分かり合えるはずだ」と信じて生きてきた。きっとそれが、私にとっては、あなたという存在に関心を注ぎ続けるエネルギー源だったように思う。

しかし、25歳になろうかという頃、私はこの信念を覆すこととなる。

私は他人を理解できない

私は他人を理解できない

という事実を私は知らされる。発達障害。医学的な見地からの診断である。
その特徴の一つに、会話や言葉の文脈やニュアンス、また他人の顔色や雰囲気といった、言語外の何かを理解する能力がうまく成長していない点が挙げられる。

これまで私と付き合ってきた人は、唐崎がまさかと思っている人もいるかもしれない。一方で、そのような方々にお伝えしたいのは、私はあなたの感情を感覚として掴んでいたのではなく、自分の中に膨大に記録されたパターンに当てはめてそれを理解していたということだ。そのパターンには、実体験もあれば、テレビ・書籍等による疑似体験も含まれる。

例を挙げると

「この女性は甘いものが好き。今、彼女の前には甘いお菓子がある。だから、この人は多分、喜んでいる」
「眉間にしわが寄っている。声のトーンが落ち始めた。誰だか知らないけど、私のこれまでみてきたパターンによると、この人は多分怒っている」

といったところだ。

正直、一人一人の喜怒哀楽を記録するというのは非常に体力がいる。そして、何よりも気力がいる。また記録しきれず、容量オーバーを起こすことも多々ある。無論、自分の記録と相手の感情が一致しないこともある。そうしたとき、残念ながら、私はあなたを困らせる。

「分かり合えない」を受け入れる

私はあなたのことを理解できない。
だからこそ、きっと、誰よりもあなたのことを「分かりたい」、あなたと「分かり合えるはずだ」と信じてきたのではないか。

今はそのような自負がある。つまり、あなたと「分かり合えるはずだ」という信念は脆くも崩れ去ったということだ。

とはいえ、信念が崩れ去ったことに、私は絶望していない。
むしろ私は、正直ほっとしている。そして、新しい信念も見つけた。

今の私は、

「もうこれからは、言外の意味を掴めないことに悩まなくていいんだ」
「相手の感情が分からなかったら、その人に聞いてみればいい。それで怒られたら、誠心誠意、謝ろう」

と思っている。発達障害に甘えているように聞こえるかもしれないが、

「できないこと・辛いことは強がらずに助けを求める」
「間違ったら謝る」

という人間としての基本をようやく実践することができると、私は思っている。そして何より、今の私は、

「分かり合えるはずだ」という呪縛から解放されている。
「他人と分かり合えなくてもいいよ」「みんなと同じじゃなくてもいいよ」と自分を慈しんでやることもできる。

ただ、このような私では、私は私という殻に閉じこもり、あなたとの会話や出会いを楽しむことができない。

では、「分かり合えない」私とあなたは今後、どうすれば関係を築いていけるのだろう。

私は私。あなたはあなた。

私は私。あなたはあなた。

あなたの育った環境やこれまで味わってきた喜び・苦痛は、私と同じであるとは思えない。顔つき、身長といった物理的な違いもあるし、職業や年齢といった社会的な相違もある。細かく挙げれば挙げるほど、私とあなたの違いは鮮明になっていくことだろう。

そのため、私はあなたの生き様を全て聞いたとて、それらを完璧に真似することはできない。つまり、私はあなたと全く同じ道を歩み、同じ気持ちになることは究極的には不可能なのだ。

この考えを聞いて、私のことを冷酷非情な奴だと思った人もいるだろう。
「人の心がない」と思った人いるだろう。
だが、もう少しだけ、私の話に耳を傾けてほしい。

というのも、私とあなたは「ねじれの位置」において、何かを共有できるからだ。

「ねじれの位置」を目指して

何もかもが違う私とあなたでも、我々は時々、意気投合できる。それは共通の経験を有しているときだ。

たとえば、

私は5年前、留学先としてトルコを楽しんだ。
あなたは10年前、旅行先としてトルコを楽しんだ。

私とあなたはもちろん異なる。トルコに行った文脈も時期も全く異なる。場合によっては、国籍も年齢も異なることだろう。

しかし、「トルコを楽しんだ」という1点を見つめる時、我々はきっと大いに会話を広げ、酒を飲み交わすことができる。私はこれまで、このような経験を数えられないくらい積み重ねてきた。

3次元の座標空間に私とあなたを置いてみるとき、私とあなたは「ねじれの位置」、つまりは、いつまでも交わることのない直線同士なのかもしれない。なぜならば、私とあなたが異なる以上、私は、あなたという直線と同じ軌跡を描くことはできないからだ。

しかし、X座標だけ、Y座標だけ、Z座標だけならば、共通の値を見つけられるかもしれない。改めて、トルコの話を例にとるならば

私:(X,Y,Z)=(私,5年前,トルコを楽しんだ)
あなた:(X,Y,Z) =(あなた,10年前,トルコを楽しんだ)

私とあなたは直接的な交点を持ってはいない。
とはいえ、ねじれの位置において共通の値を有したとき、私とあなたは同一直線状に存在することができる。共通の経験はその時、私とあなたを貫く、一本の直線として浮かび上がってくるはずだ。

私は、この素晴らしい偶然を「分かち合う」と呼びたい。
どれだけ私とあなたが違っても、そして、私とあなたは「分かり合えなく」ても、共通の経験を「分かち合う」ことはできる

分かり合えなくても、分かち合うことはできる

ここで、このような一節を引用したい。

「「分かる」というのは、おそらくはその字のとおり、「分かたれる」ということです。話しているうちに気持ちが一つになる、同じになるというよりも、むしろ逆に、一つの言葉に込められたものの位置や感触がそれぞれに異なること、相手との差異・隔たりがいよいよ細かく見えてくることです」
【鷲田清一,2012,『語りきれないことー危機と傷みの哲学』角川学芸出版.よりp36】


共通の経験を「分かち合う」ことを通して、私とあなたは「分かたれる」。
すなわち、私はあなたを少しだけ「分かる」チャンスを得る。ただ、それは同時に、私とあなたが異なるという冷酷な事実と向き合うことでもある。

でも、今の私は、「分かり合える」という不確かな希望的観測よりも、「分かち合う」偶然に希望を託したいと思っている。

「分かち合う」ことを通して私はあなたとの違いを知る。
しかし、それは、あなたを少しでも多く「分かる」ことに繋がっていくのではないかと考えている。

だからこそ、私は「分かり合えなくても、分かち合うことはできる」と信じることができる。

「分かち合う」喜びを通して、「分かり合えない」あなたを少しでも多く「分かる」ことができればと考えるのだ。

その逆も然りである。「分かり合えない」私を、少しでも多く「分かる」ことのできるあなたとの出会いを私は待ち望んでいる。

だから、私はあなたと「分かり合えなく」ても、絶望していない。
そして今、「分かり合えない」という事実が、「分かち合う」喜びを生み出しているはずだという新たな信念を私は持っている。
――
これを象徴するエピソードとして、東京都・秋葉原で見た衝撃的な光景があります。

とあるおもちゃ屋さんで、外国人と日本人がドラゴンボールの孫悟空のフィギュアを前に、互いに目を輝かせ、何かを語り合っている場面に遭遇しました。彼らの情熱は部外者である私にもひしひしと伝わるもので、そして本当に楽しそうだったのです。

しかし、何よりも驚いたのは、彼らがそれぞれ国の言葉、つまり英語と日本語でコミュニケーションをしていることでした。
私は一応英語が理解できるので、双方の言葉に耳を傾けていると、両者が言語は違えど孫悟空のフィギュアの素晴らしさを相手に伝えようとしていたのが分かりました。
今思えば、彼らは言葉や国籍の壁を越えて、フィギュアを愛するという共通の経験を「分かち合って」いたのではないかと。

私とあなたが「分かち合う」ことを提供してくれる経験は、フィギュアかもしれないし、旅かもしれないし、楽器やダンスかもしれない。
それは居合わせる「私とあなた」もしくは「私とあなたたち」によって異なってくることでしょう。

だから、島に遊びに来てくださる方とは、「さぬき広島を楽しんだ」という点において、その喜びを「分かち合え」ればと思っています。

「分かり合えない」我々が、何かを「分かち合う」という素晴らしい偶然は、きっと我々のすぐ近くにあるはずです。

この記事が参加している募集

自己紹介

スキしてみて

いただいたサポート分、宿のお客様に缶コーヒーおごります!