住む場所を選ぶという残酷さ
案外、住む場所って自動的に決まっているような気がして、、、
「行く」と「住む」は異なる
「色んなところに行ってみたい」
そう思う気持ちとはまた別に、
「色んなところに住んでみたい」
という気持ちもある。
ただ当たり前かもしれないが、「行く」と「住む」は全く異なる行為だ。
「住む」は、人生の多くの時間を一つの土地に捧げるということである。
今の自分は、島で収入を確保して、長く定住したいと思っているし、
もっと言うと結婚して、子育てもしたい。
ただ移住前、こんな未来を思い描いたときに、同時に思ったのは、
「この島で定住を目指すということは、他の土地に住むという選択を捨てることなんだな」
ということだった。
「住む」を振り返る
私の「住む」を振り返ると
20歳までずっと大阪の実家で、
20歳から21歳の間は、トルコのチャナッカレという街に留学生として暮らしていた。
22歳からの2年間は大学院生として札幌で過ごした。
また会社員の短期間、広島市に居た時期もある。
そして、今に至る。
改めて振り返ると、20歳を迎えてからは、自分でも驚くくらいに「住む」場所がコロコロ変わっていたようだ。
「ここにずっと住むかもしれない」
今思うと、今回の移住は生まれて初めて
「ここにずっと住むかもしれない」
という前提の下、住む場所を選んだのかもしれない。
大阪の実家に居た時は、「就職したら実家を出ることも大いにあるだろう」と思っていた。
トルコ生活にしても大学院生活にしても、期間が決まっていたので、その土地を離れるというのは予想の範囲内だ。
加えて、会社員のときも、転勤があるから、ずっとこの地に留まることはないだろうと思って広島市で生活していた。
今回は、違う。
上手くいけばいくほど、島定住は確実になっていくのだ。
住む場所を選ぶ残酷さ
もちろんそれを望んでいる。
ただ一方で
「住むが限定されるって、少し残酷だな」
と思ってしまう自分も居るのである。それは私が大学院で研究対象にするほどの旅行好きだからだろう。
とはいえ、いつかは「住む」場所を選ばないといけない。
私はその選択をある程度終えている。
今までの人生はきっと「住む」は二の次だった。
生まれたのは偶然大阪で。
トルコに留学しようと思うと、チャナッカレで。
研究に適したのは札幌で。
会社が決めた赴任先は広島で。
案外、自動的に住む場所は決まっていたのかもしれない。
だからこそ、「ここに住もう」と思える土地に出会い、それを自分で決められたのは、幸せなことのような気がしてきた。
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住む場所は今後のリモート時代では多様化していくのでしょうか?
そんなとき、島もその範疇に入ればいいなぁと思います。
というわけで本日はこれにて!
ご清読ありがとうございました!
また明日もアクセスしてみてください!
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