見出し画像

外国人にとって暮らしやすく、声を掛け合えるまち

私たち夫婦が 今の住まいに越してきて、この秋で14年になる。

結婚してすぐ、夫の転勤先の海外に移り住んだ後、帰国後は 埼玉県、そして千葉県内では二つの市で暮らした。

結婚前は東京下町の実家で育ち、大学在学中には イギリス留学を経験した。

結婚するまでの 20数年と、結婚してからの約25年を合わせると、国内外、実に様々なところで暮らしてきたと改めて実感する。

長期間でなくとも、合宿やひとり旅含めあらゆる旅行で 国外でも、国内でも北から南まで様々な土地を訪れてきた。

そんな私が、最近特に考えること、それは 私自身、これから住みたいまちはどんな場所なのか?ということだ。


「彼女は、僕から見ても 適応能力がとても高いと思います」

結婚前、夫(当時は婚約者)が 私の両親と妹に言ったことがある。

どんなところを見て、夫がそう判断したのかはわからない。

けれど、確かに夫の言うとおりだ。

「住めば都」という言葉があるが、
私自身、この言葉はとてもしっくり来る。

これまで暮らした場所はどこも大好きな土地だし、
少々不満があってもそれを払拭するくらい 良いことが沢山あった。

そのため、改めて住みたい場所、というのは 実際 具体的にはない。

おそらく、どこに行ってもそれなりに楽しく満足して生活していける自信があるのだ。

ただ、私がここ数年 改めて思った点が一つある。

それは「外国人にとって暮らしやすく、声を掛け合えるまち」だということだ。

それは私が「外国人」として暮らした経験がこれまで幾つかあるからこそ
そう思う。


特に留学したイギリスや、夫の海外転勤で暮らした土地で、なぜ私は大きな不自由なく生活できたのだろう。

改めて考えると、「外国人の私」にとって それぞれの土地が 快適に暮らせるまち だったことに他ならない。

かといって留学時のホームステイ先や
海外駐在員の妻として暮らした家の周りなど、特に日本人向けの表記があったり、日本人向けのお店があったわけでもない。

そして私自身、初めから語学が完璧だったわけでもない。
英語が好きで、ある程度イギリス英語には慣れていても 留学時には 着いて早々、聞き取れない英語に泣きそうになった。

夫と暮らした国でも、夫も私も初めて学ぶ言語だった。
初めは買い物や挨拶の単語すらままならず、
英語の通じない国なので 無力感にさいなまれた。

それでも、私がなんとかやっていけたのは
周りが常に温かく声をかけてくれたからだ。


「おはよう、いい天気だね」

「いってらっしゃい」

「今日は何を買うの?」

「この肉(魚、野菜)は、こんな料理に使えるよ」

「このメニューはこういうものだよ」

挨拶でも、買い物の際も、そしてカフェやレストランでも。

皆温かく声をかけてくれた。

もちろん自分から声をかけても
温かく接してくれた。

住んでいる家が突然断水して水が全く使えなくなった時も。

出先で突発的な大規模デモに遭遇し、 目の前で火が放たれ、車が燃えるのを見たことがある。

涙目でパニックになる中で

「大丈夫?こっちに来て。」

と言いながら私の手を引き、家の方向に向かう貨物列車に乗せてくれたおばあちゃんがいてくれた時も。

そして、乗っているエレベーターが突然故障して、
止まってエレベーターに閉じ込められた時も。

さすがに死ぬんじゃないかと思ったけれど
それ以上不安にならなかったのは
しっかりと守ってくれた人たちがいたからだ。


かといって、全く差別されなかったわけではない。

留学でも、駐在員妻の時も、そして旅行先でも
日本人(アジア人)ということで
露骨に差別する人もいた。

差別を受けたということも、今になれば 良い経験だ。
なぜなら、差別された人の立場がわかるからだ。

どんなことでも言えると思う。
知らないことというのは、その立場の人の思いを想像すらできないのではないのだろうか。

私は 日本人として差別を受けた経験があるからこそ、
あらゆる立場で差別を受ける人の気持ちに寄り添えるようになりたい、と
そう思うようになれた。


日本には旅行だけでなく 仕事など様々な理由で暮らしている外国人の方々がいる。

そうした人たちと話す度に思うが、
日本語をとても勉強していて、日本人以上に日本語を流暢に話す人も多い。

日本についても多くの人が知識を持っている。

けれど、その人たちがどこに住んでいても 暮らしやすいと思えるには何が必要なのだろう。

今の時代、どこにいてもパソコンやスマホで情報を取れるし、
離れて暮らす人たちとコミュニケーションできる。

けれど、やはりこれからの時代にも必要なのは
「生の声のやり取り」ではないだろうか。

電話や画面越しの会話で 寂しい気持ちや故郷を思う気持ちは少し癒されるだろう。

でも、やはり もしもの時、例えば自然災害や、病気の際など
困った時に 周りの人と声を掛け合って助け合ったり、助けを求めたりできなければ 身を守ることはできない。

そして、そうした声を掛け合う必要性は、単に外国人に対してに留まらず、
あらゆる立場の日本人同士にも言えることだと思う。

「困っている時に助け合ったり声を掛け合える」ような環境でなければ、
特に高齢者や障がいのある人たちにとっても暮らしやすい環境ではないかもしれないからだ。
もちろん、その逆もしかりで
もともと日本人同士で 声を掛け合う基盤がなければ、
外国人の人に声を掛けることはできないだろう。


私が理想とするまちは、年齢や性別に関係なく、そして 障がいの有無に関わらず、国籍に関係なく そこに住む人たちが 気軽に挨拶できるまちだ。

残念ながら、今の住まいの周りは
町内会はあれど、日々の挨拶もそこそこ、という人たちが多い。

私の家の近くで遊ぶ子どもたちも
しっかりと挨拶できる子はあまりいない。

そして、駅近くには 幾つか多国籍のお店があるが
中にはその店の周りにたむろしている外国人がいて、少し異様な雰囲気を醸し出している。

そういう彼らに挨拶はするが
おそらく、日本人への警戒心が強いのか、気さくに挨拶してくれるような感じではない。

駅近くの商店街は、この10年ほどで次々と店が閉店してゴーストタウンと化してきているからか、活気も薄れているのだ。

八百屋さんやお肉屋さんもなくなって、買い物はドラッグストアーやスーパーになったせいか、お店の人との会話も少なく(今はご時世的に会話はできないが)味気ない。

駅で電車を待っていると、電車を待つ外国人の人も少なくない。

このまちで暮らす人たちだけでなく
日本で暮らす外国人にとって暮らしやすいまち作りは
やはり 声を掛け合う関係性から生まれる会話、コミュニケーションによって構築されるだろう。

「こんなまちにしよう」

「このまちに これがあったらいいな」

そうしたアイデアは日常の会話の基盤がなければ生まれない。

まだまだコロナウイルスの終息には時間がかかるだろう。

少しずつ、日常を取り戻しながら
同じまちで暮らす者同士の会話も少しずつ増えていくことを私は願いつつ、
これからも実践していきたいと思う。


#暮らしたい未来のまち


この記事を気に入っていただけたら、サポートしていただけると、とても嬉しく思います。 サポートしていただいたお金は、書くことへの勉強や、書籍代金に充てたいと思います。どうぞよろしくお願いいたします。