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嘘をついたカッコいい男たち〜平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』を読みながら〜

タイトルに挙げた「男たち」というのは、「闇営業」という急ごしらえの言葉により、芸能界という世界で活躍の場を奪われた(奪われつつある、という現在進行形では最早語れないだろう)、宮迫博之さんと田村亮さんのことである。

僕は「アメトーーク!」「ロンドンハーツ」それぞれにおける熱心な視聴者とは言えない。だが気分が落ち込んでいるとき、何度も宮迫さんや亮さんに救われたのは事実だ。これを恩義というにはいささか安直だが、一連の経緯を目にして、二人の現状に対して鬱々とした想いを抱いていた。

そんな中で開かれた会見を見て、多くの人が驚いたと思う。

会見詳細については割愛するが、二時間半にも及ぶ記者の質問に、二人は真摯に答えていた(応えていた、ではなく)。時に言葉を詰まらせ、涙を流しながら。お笑い芸人の仲間や先輩はもちろんのこと、対峙しているはずの吉本興業に対してさえ感謝の気持ちを吐露する二人の姿を、僕は「カッコいい」と思った

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全く別の流れで、僕は平野啓一郎さんの新書『「カッコいい」とは何か』を読んでいた。そこで語られている「カッコいい」という概念について、二人の姿とどうしてもリンクしてしまう。

前述の通り、涙を流しながらも会見に至るまでの経緯を赤裸々に話した二人のことを僕は「カッコいい」と思った。

一方で、二人の姿を見て「情けない」「嘘つき」と酷評する人もいる。事の発端は彼らであることもある。また「男らしさ」が礼賛されていた時代において、涙を流すことは「男らしくない=ダサい」と見做されていたから、特に不思議なことではない。

「カッコいい」とは何か。そのヒントが本書で語られている。

(生物学的「男らしさ」について、ビュフォン『人間の博物誌』に触れながら)男性は「涙であれ精液であれ、自分の体液の流出を統御し、抑制するよう促される。快楽を管理し、性的エネルギーを規制することが、男らしさを示すこと」と理解されたという。「男らしさ」とは、つまり、自己を主体的にコントロールすることであり、更には自己の周辺の状況、女性を含めて他者をコントロールすることだった。(平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』P393より引用、太字は著者)

カッコいいという概念は、時代の変遷と共に変わる。今はカッコいいの担い手は性別を問わない」といった記述もある。そのことに対して全く異論はなく、むしろストラングスタイルで権力を誇示する人が、現在は「ダサい」と認識されることが多くなった。そのことに気付いている50代もいれば、全く気付かない50代もいる。後者の人間が無自覚にパワハラに至るという流れを「ダサい」以外のどんな言葉で形容したら良いだろうか

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ここまで書いたことを読み返す。いちいち推敲しながら、切り貼りするように言葉を選んでいる。我ながら歯切れが悪い文章だと思う。それはつまり「ダサい」と同義であり、言葉を扱う立場の人間として最も不名誉な評価だ。

言葉を選んでいるのは、ハラスメントを孕むセンシティヴなテーマを扱っていることに由来しているわけではない。僕がいまいち明確に考察できないのは「嘘をつく」ということに対して判断を留保しているからだ。

スピッツの歌には「嘘」という言葉が良く出てくる。「優しい嘘」「とっておきの嘘」「はがれはじめた嘘」「嘘で塗りかためた部屋」など。わざわざスピッツを引用しなくても、日常生活において許される / 許されない嘘が存在していることは、人によって線引きは異なれど同意いただけるはずだ。「嘘」が自分の保身であったにせよ「(宮迫さんと同様、愛する妻や息子がいる)自分だったらどう振る舞っただろう」と考えたときに彼らのことを責められそうにない。

この事案も論点は様々あるだろう。何が悪いか「こと」という観点で捉えるのは僕は好まない。むしろ「こと」として判断をくだせるのは、相応の能力を有した第三者機関だけだと思っている。

「もの」というファジーな観点でぼんやりと見つめ、適切なタイミングで語りたいと僕は思う。「ものを語る」すなわち「物語り」であるならば、それはTwitterの140字では到底語れやしない。今が適切なタイミングであるかはさておいている。平野啓一郎さんの新書を読んでの読書感想文にかこつけて語っている「ダサさ」をお見苦しく感じられてしまうかもしれない。

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(ヒトラーを例示し)私は「カッコいい」という価値を最大限評価したいし、そのためにこんな本を書いているのだが、同時に直視し、批判すべきは、こうした否定的な活用の事例である。なぜなら、「カッコいい」という強い憧れの感情は、アイデンティティに深く食い込んで、その人の人生を本当に変えてしまう力を持っているからである。(平野啓一郎『「カッコいい」とは何か』P413〜414より引用、太字は著者)

「カッコいい」はとてつもなくパワフルだ

正方向に作用することもあれば、不可逆的に負の方向へと導かれてしまうこともある。

「カッコいい」は個人的な評価だ

その妥当性を論じることはできるけれど、それが「正しい」「間違っている」という風に追求することはナンセンスだ。「カッコいい」の是非を巡って喧嘩になることも、もしかすると戦争になることもあるかもしれない。

「カッコいい」は厄介だ

だけど僕は、僕が「カッコいい」と感じる全ての物事に対して、いつまでも賞賛していたいと思うのだ。


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