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「神楽坂オーバーグラウンド:ポンコツ探偵と支配する女」第3話

第3話 お嬢様の思惑と利害の一致

1. マリとの出会いを振り返る

この神楽坂の事務所は8階に位置しており、ちなみに広さは50平米程度、2LDKのマンションである。
鍵がなければそうそう簡単に侵入できるとは思えないのだが……。

夜も遅い時間なので少し迷ったが、マリに連絡し、事務所が荒らされたことを伝える。

さすがに彼女も驚いたらしく、帰宅途中だったが引き返し、これから向かってくるという。
何か心当たりがあるのか、警察には連絡しないでほしいとのことだった。

ざっと調べてみたところ、盗まれたものはとくになかったようで、まずはひと安心である。
マリはというともうすぐ到着するというので、この機会に彼女との関係性について簡単に触れておきたい。

……それは1カ月ほど前のことだったか、マリのほうから俺にメールが送られてきた。
ちょうどマリの父、久住正信の著書の原稿を書き終えたころである。

マリは、直接俺と会って話がしたいという。
どうやら原稿執筆の依頼ではないようだ。
大手企業に勤めるお嬢様が俺にどんな用事があるのだ?
事情がよくわからないまま、神楽坂のカフェで待ち合わせをした。

俺は15分ほど先に到着すると、何度目になるだろうか江戸川乱歩の「D坂の殺人事件」を読み始める。
D坂とは千駄木駅近くの団子坂のことらしく、俺も以前何の気なしに訪れてみたことがある。
さすがに令和のいまでは、事件の舞台となった古本屋はもちろん、大正時代の趣なども残っていない。

それでも、当時を生きていないのになぜか懐かしさを感じるのは、いまが過去の延長線上にあるからだろう。
ちょっと後ろを振り返れば、明智小五郎が活躍した時代を目の当たりにできたのだ。

「絶対に発見されない犯罪というものは不可能でしょうか。僕はずいぶん可能性があると思いますがね」

明智小五郎の名言であるが、実際にそうなのだろうか。
やはり名探偵とは、ふつうの人では計り知れない卓越した視点を備えているものである……。

「佐伯さん、お待たせしてしまいましたか。お世話になっております」

マリが俺のテーブルの近くに寄ってきながら声をかけてきた。
佐伯とはもちろん俺の本名であるが、皆からトキと呼ばれることに慣れ過ぎていて、ときどきうまく反応できないことがある。
つい中腰になった。

「え、あ、どうもこれは……どうも、お世話になっております」

マリは「失礼します」と言いながら俺の斜め向かいの椅子にゆっくりと座り、俺が手にしている本に目を止める。

「探偵ものがお好きなのですか」

「ええ、昔から好んでよく読んでいるのですよ」

「いいご趣味ですね」

返答に困った。
これ、皮肉ではないよな。
マリの顔をのぞき見するが、にこやかな表情からは何も読み取れなかった。

マリが紅茶を頼んだところで、お互いそれ以上の世間話をする間柄でもなく、さっそく本題に入る。

マリの物言いは想像以上に率直だった。

「佐伯さんの助手としてわたしを雇ってもらえませんか」

とつぜん何を言い出すのだろうと思う。
助手を持つなんて妄想以外で考えたこともなかった。
ゴーストライターの助手とは、何をするものなのだろうか。

「わたしの仕事が終わった夜とか休日とか、空いている時間だけでいいのです。勝手なことばかり言ってすみません」

どうにも理解が追いつかない。
これは謎である。
俺の推理力を試すよい機会かもしれない。
インタビュー時に見せていた、マリの父親に対するそっけない態度がヒントになりそうだ。

「まだ詳細まで事情はお伺いしていないものの、お察ししますよ。失礼ながら、あなたとお父様との間には深刻な確執が生じているように見受けられました。そのため、あなたは生計的に自立するためにライターを目指している……そんなところではないですか?」

「うーん」

どうやらぴんとこない様子だった。

「うまくいっていないというより、うまくいきすぎているというか……それが逆に負担なのです」

「つまり……どういうことですか?」

もう謎を解くより直接尋ねた方が、話が早そうである。

2. 事務所と助手が手に入る条件とは

どうやら正信はマリのことを溺愛しすぎているらしいのだ。
そのため監視の目がきつく、なかなか自分の時間が取れないという。
確かに仕事もプライベートも親元では、気持ちの切り替えも付けづらいだろう。
マリはこのまま父親の秘書のままで終わるのは、さすがに嫌なのだそうだ。

なお、取材時に正信に対してそっけない態度をとっていたのは、公私混同をあえて戒めていたとのことである。

一見自由そうに映るライターの助手を務める中で、新たな自分の人生を見出したい、そんな風に考えたらしかった。
なるほど、いまどきの若者にありがちな、ふわふわした理由なのかな、と意地悪く考えてみたりする。

「ライターに憧れを持ったのは、佐伯さんのインタビューしている様子や原稿の出来栄えなどをみていて、おもしろそうな世界だなと感じたためです」

俺を選んでくれたのは光栄だが、それにしても俺の助手でなくてもよい気がした。
ライターが活躍できる分野はもっと幅広い。
ビジネス書より華やかなジャンルを選ぶのも悪くないのではないか。

「佐伯さんはどことなくひょうひょうとしていて、文章もビジネス書にしては自由闊達に思われました。窮屈な毎日を送っているわたしには、どこか惹かれるものがあったのです」

そんなふうに言われると、こちらも悪い気はしない。
とても素直で賢くいい子ではないか。

ただし問題なのは、助手を雇ってまで行ってほしい仕事がすぐに思い当たらない点だ。
資料探しとか雑用でいいのだろうか。
そもそも賃金を払うほどの余裕がないという懐事情もある。

また、何より父の正信がこのことをどう思っているかが気になる。
顧客とのもめごとは当然避けるべきである。
まことに残念ではあるが、この話はなかったことに……。

マリはすべてを見越していたようだ。

「給料はいりません。かえってお邪魔になるだけでしょうから。あと僭越ながらもう一つ条件をつけ加えさせていただきます」

それは神楽坂の事務所についてである。
自由に使ってよいという。

整理すると、マリを助手として迎え入れることを条件に、神楽坂の一等地の事務所をただで使わせてくれるということである。

これは検討の余地がありそうだ。
なぜそこまでして……という疑惑も湧いてくるが、これがいわゆるお嬢様の気まぐれというやつなのか。
ほかにも隠れた事情があるのかもしれない。

しかし「神楽坂の事務所」……悪くない響きである。

「その代わり、父には内緒でお願いします」

やはりそうきたか。
これがどう転ぶかわからないものの、いずれバレる可能性は高そうである。

せめて母親を味方につけておきたいと思ったが、そういえばマリの母親は数年前に鬼籍に入っていたのだった。
そのぶん正信によるマリへの溺愛ぶりも深まったのかもしれない。

それにしても、どうも変わった契約に思えるし、マリの意図が完全に呑みこめない。
しかし俺はこの条件を受け入れるほうに気持ちが傾いていた。

マリ自身の助手としての力量は未知数だが、聡明そうだし、これから何かしら鍛えれば何かしらものになるのではないか。

しかも、このような条件で助手になろうとする人間に、本来どういう事情、背景、理由が存在するのだろうかと興味がある。

そもそも探偵に憧れる俺は「助手」という言葉に弱い。
名探偵のそばには必ず優秀な助手がいるものだ。
一字一句、俺の素晴らしい言動を拾って物語にしたためてくれる。
助手がいる生活か……なかなか魅力的である。

「承知した。その条件を呑むことにした」

「本当ですか? 嬉しいです。どうぞよろしくお願いいたします!」

3. はじめての本格的な事件推理

……どうしたことか、そのマリがなかなか戻ってこない。
部屋は荒れたままである。
せっかくの機会なので俺自身で推理を組み立ててみることにした。

事務所全体を見直したが、やはり何かが失われた形跡はなく、直接的な被害はなさそうだ。
しかしこれはれっきとした事件である。
探偵としての血がうずいできた。

まず、俺の持つ資料の何が犯行を呼び寄せたかだ。
俺がいま書きかけの原稿は、大企業のトップの成り上がりもので、とくだん珍しいものではない。
地道にまっすぐにまっとうに努力をしてきたタイプの経営者で、読ませどころをどう工夫するか悩んでいるくらいだ。
不法侵入してまで確認したい内容など含まれていただろうか?

「とすると、目的は過去インタビューした誰かの資料かもしれないな」

直近だと、マリの父親である久住正信の資料がまだ整理しきれずに残っている。
たとえば反社会的勢力が正信の弱みを探っているとか……。
いや、それはなさそうだ。
新興のIT企業の社長ながら、正信の経歴はきれいそのものといえ、つけ込むすきがない。
というのも妻の頼子の実家、結城家の後押しがあって、正信の企業も急成長の波に乗ることができたのだ。

ただ一点気になるところがあるとすれば、頼子の急逝である。
マリが25歳くらいのころだろうか、頼子は5〜6年前に亡くなっているのだ。
脳血管の疾患か何かで、若くしてこの世を去ってしまったという。

久住正信とのインタビューでも話に上ったのだが、やはり公私において後押ししてくれた感謝の気持ちをずっと忘れられずにいるとのことである。
そのため、これから出版される本の前書きにもまず「亡き妻、久住頼子に捧げる」と記されることになる。

しかし頼子の実家、結城家では久住正信への不審の念が収まらない様子だった。
特に頼子の兄である顕彦は、頼子が若くして亡くなったのは正信が頼子に無理をさせたためだと考え、だいぶ腹に据えかねていたという。

そのあたりの諍いに俺も巻き込まれたのだろうか?

ここまでの話はただの仮説でしかないが、いまはそれでいいのだ。
明智小五郎も言っていたではないか。

「物質的な証拠なんてものは、解釈の仕方でどうにでもなるものですよ。いちばんいい探偵法は、心理的に人の心の奥底を見抜くことです」

4. 探偵の出る幕はなかったという話

「ただいまー」

深夜のわりに、マリが元気よく帰ってきた。
タクシーで戻ってきたらしい。

「今回の件、解決したよ」

「え、どういうことだ?」

大筋は自分が見立てた仮説と違いないようだった。
今回、久住正信の本が出るにあたって、頼子のことがどのように描かれていたのか、顕彦がものすごく気にしていたというのだ。

我ながら驚きである。
明智小五郎ばりの推理力ではないか。

顕彦は版元にゲラを出版前に見せてほしいと依頼したらしいが、すげなく断られたらしい。
俺がゴーストライターであることは(ちゃんとした)探偵を雇って探り当て、ついでにマリの事務所に居候していることまで突き止めたとのことだ。
あとは合鍵を持って事務所に押し入り、資料を漁ってきたというわけである。

「なぜマリに直接お願いしなかったんだろう?」

「私は正信の娘だから、どう出るか測りかねたところがあったんじゃないかと思う」

「そういうものかな。それにしてはすごい執念だ。探偵を雇ったり不法侵入したりするほどのことなのか?」

それだけ顕彦の久住政信に対する不審感が強かったのだろうか。
しかし俺の資料から頼子に関する記述を見て、逆に正信と頼子の絆の深さにあらためて感じ入ったとのことだ。
俺もいい仕事をしたものである。

「顕彦さんは、妹である母のことをすごく可愛がっていたからね。早くに亡くなったのはそうとう無念だったみたいだよ。合鍵の管理はもっと厳格に行う。だから、ここはわたしの顔に免じて許してもらえないかな」

マリはそう言うが、そんなことはどうでもいい。
せっかく俺の推理がおおむねいい線をいっていたのに、名探偵らしく披露する場面を奪われたのだ。

「マリ……資料を漁られたことは気にしていない。ただ、俺の探偵としての出番をあまり奪わないでくれ」

「何わけわからないこと、ごちゃごちゃ言っているの。……あ、ひらめいた!」

今度はなんだというのだ。

「ここの事務所の合鍵とかけまして、トキの探偵業とかけます」

「……その心は」

「どちらも替えがきくでしょう!」

いきなりの謎かけでそうくるか。
けっこうひどいことを言われているはずだが、どうもマリの笑い顔を見ていたら、まあいいかという気になってくる。

それにしても今日はいろいろなことが起こりすぎた。
せっかくだから名探偵らしくスコッチでも飲み直すこととしよう。
マッカランの12年シングルカスクが備蓄してあったはずだ。

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