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【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)②

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境内の右側には、有刺鉄線を網のように重ねた柵が張られていて、その下方は崖になっています。崖の下を、先ほどくぐってきた線路が走っているんです。光司君のお母さんは僕にその柵を越えろと言うんですね。

 でも、どう考えても僕の家とは逆方向なんです。僕は抵抗したんですが、彼女は「大丈夫。近道だから」の一点張りでした。それでも僕が嫌がり続けると光司君のお母さの声も段々ヒステリックになっていって、最後のほうはほぼ絶叫で、「やるのよ!」と怒鳴りながら僕の手を乱暴に引き上げたんです。その腕はトレーナーの表面を毛玉がびっしり覆っていて、何かの鱗のように見えました。髪の毛は乱れていて、女が何か叫ぶたびに例の嫌な匂いがしてきて僕は気を失いそうでした。女が線路に僕を突き落そうとしていると直感的に分かったんです。

 必死に腕を引き離そうと揉み合っているうちに、僕は右手首を有刺鉄線で引っ掻いてしまいました。

「痛いよ! もう放して!」
 泣き声を挙げた瞬間、背後から男性の声が響きました。
「子どもから手を離すんだ!」

 そこには、おじいさんがゼイゼイ言いながら立っていました。おじいさんは女を止めようと、言い合いが続いているんです。早口だったので言葉ははっきり聞き取れなかったのですが、おじいさんは自分が代わりに「線路に飛び込んでやる」と啖呵を切ってくれました。「そうすればここいら辺は大騒ぎになる。もうあんたもその子を突き落すことなんぞできなくなるぞ」って。
 僕は意識が朦朧としてその場に立ちすくんでいたのですが、みるみるおじいさんは有刺鉄線の柵を越え始めたんです。啖呵ではなく、本気で言っていたんですね。

 おじいさんが柵を跨ぐと同時に、タイミング悪く右手から電車が走ってきました。
 ガガガガーッ! と、金属が擦れ合う音が轟いた時に、柵の向こうでおじいさんが足を滑らせて宙吊りになったんです。
あぶない!
 僕は叫ぼうとしたんですが、まつ毛でさえ自分の意志では動かすことができませんでした。電車のライトに照らされて、おじいさんが有刺鉄線を掴んでいる両手から、血が大量に流れているのが見えました。その血に滑ったのか、片手が柵から離れた瞬間、おじいさんの足元に電車が滑り込んで来るのが分かりました。

 たった数秒だったのでしょうが、途方もなく長い時間に感じました。女は悲鳴を挙げながら身を乗り出して、おじいさんの手を掴んでいました。その声と電車の音が僕の耳の奥に反響していました。
 電車が通過して間もなく、なかば宙吊りになったまま、おじいさんがこちらに向かって大声で言いました。

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