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らいおんとうち
2021年10月27日 00:56
宗教なんていらない?いや、この時代に宗教なんて関係ないよって思っている人は多いんじゃないのかな?うちも、元々、無宗教で生きるって思っていた派の人間です。だってさ、宗教を信じたところで、日常生活には支障ないじゃん?他には、、、宗教ってさ、色々あるし、なんかしきたりとか決まり事とかあって大変そうじゃない?例えば、キリスト教で言えば、毎週日曜日教会に行かなきゃいけない
2021年10月27日 00:54
こんにちは!今日は、クリスチャンになるまでのうちの人生を話そうかな。タイトルは、そうだなぁ、、、神様と追いかけっこ。にしよう!長くなるかもしれないけど、聞いてね!それでは始まり始まり〜〜キリスト教と出会うまでうちはノンクリスチャンの家庭で生まれた元気な子だったのよ。小学校の頃は、毎日何かしら習い事をしてて、多い時では5、6個同時にしてたかな。まあ、小学生にしては、めっち
tecchin2618
2021年10月11日 07:03
テキスト(聖書)とコンテキスト(時代の文脈)との対話がなされているか。両者の対話こそ教義学的営為である。テキスト(聖書)だけであるならば、それは現代の人の心と噛み合わぬいわゆるレプリスティネーション(昔の言葉のただの反復)以外の何でもなくなる。メッセージの抽象化である。反面、コンテキストだけの神学は、福音の根本である人間の絶望的状況の認識欠如を前提としており、それも抽象的神学の非を免れない。教義
週刊聖書|関 智征
2021年10月20日 21:45
私たちが使っている漢字には、不思議と聖書に書かれている物語とつながっているものが少なからず存在します。その例をこの場で、少しづつご紹介します。
Hokuto Ide
2021年10月18日 23:18
イエス・キリストは自身を真理と呼び、聖書は彼を「すべての人を照らすそのまことの光」と呼んだ。ここで言うまことの光とは、真理を可視光に例えた表現だ。近づき見れば善悪の区別のつかない状態である闇が消え善悪の峻別が可能になる存在、これがキリスト教の示す真理だ。白を善に、黒を悪に例えよう。可視光のない閉ざされた部屋では白も黒も区別できない。黒を白と呼び、白を黒と呼んでも検証できない。偽善に隠蔽された悪
2021年10月5日 11:23
祈りをはじめとして、信仰者にできることというのは、自分で器を満たそうとすることの限界を受け入れ、空っぽの器を借りてきて神から授かるものを受け取る準備をすることのように感じる。空の器を持ってきて何も起きなかったら愚かに見える。だけど神の愛を信頼して満たしてくださるほうに全部賭ける。祈って何も行動しないのではない。行動するにはするのだが、神側からの介入がなければ全く意味のない行動に走ることだろう。