Hokuto Ide

クリスチャントゥデイ編集長

Hokuto Ide

クリスチャントゥデイ編集長

マガジン

  • 考え方

    自分にとって、好き嫌い、支持不支持、善悪などの評価如何にかかわらず、考えさせられた、新たな視点を学んだ、考えるに値する重要さがあったと感じた記事を記録しておく場所です。この記事リストに入っているからといって、すなわち、僕が支持しているとか、良いと思っているというわけではなく、深く考えるに値すると感じたということです。

  • キリスト教

    クリスチャントゥデイの編集長が不定期にnote.comを巡ってこれは良いと思ったキリスト教関係の記事をまとめていったものです。

  • 情報技術

    IT関連でためになると感じた記事を貯めておく場所です。

  • 報道とジャージャリズム

    報道とはジャーナリズムとは、何か、どうあってきたのか、今どうであるのか、今後どうあるべきか、考える際に有益であると感じた記事をここに集めようと思います。

  • ウクライナ

    ウクライナ関連でこれは記録しておきたいと感じた記事を不定期に集めておきます。製作はキリスト教メディア、クリスチャントゥデイの編集長です。

最近の記事

  • 固定された記事

信仰によって生きる人

祈りをはじめとして、信仰者にできることというのは、自分で器を満たそうとすることの限界を受け入れ、空っぽの器を借りてきて神から授かるものを受け取る準備をすることのように感じる。空の器を持ってきて何も起きなかったら愚かに見える。だけど神の愛を信頼して満たしてくださるほうに全部賭ける。 祈って何も行動しないのではない。行動するにはするのだが、神側からの介入がなければ全く意味のない行動に走ることだろう。神側の介入を予期しない人からは論理的にあり得ない無謀な選択にも見えるかもしれない

    • イエスの味方になりたい

      「イエス様の無実を証言すること」サンヘドリンでは弟子であるペテロもヨハネにもできなかった無実証言を、イエスの側にたって、証言した。たった一人の証言者が一緒に十字架にかかっていたこの強盗だった。もてはやしていた群衆も弟子もイエスを裏切った中、イエスのたった一人の味方になった。 弟子たちには失うものがあっただろう。あの場でイエスの味方になり、イエスの無実を証言すれば、命、社会的立場、人間関係、未来、あらゆるものを失うおそれがあった。十字架につけられた強盗には、命も社会的立場も、

      • 復活と世界の仕組みに向き合う

        理系の自分がイエス・キリストの復活とどのように向き合って、どう考えて、どう信じているのか、言語化したい。 自動車を整備していた祖父と、炭鉱掘削機械を設計していた父の影響か、幼少期から物理、化学、生物に興味があり、学校教材以外の本や科学雑誌を読み、DNAの模型を自作するのも遊びだった。 最初は理科の教科書をそのまま信じるような向き合い方をしていた。「鉄は塩酸に溶ける」と教科書が示すなら、「鉄は塩酸に溶ける」のが事実だと受け取った。単純な向き合い方だったと思う。当時最新の科学

        • 「わたしの」救い主イエス・キリスト

          「イエス・キリストを個人的な救い主として受け入れる」という言い回しがある。"Accept Jesus Christ as your personal Savior"の直訳だろう。 "personal"を「個人的な」と訳すと個人主義が連想されネガティブな感じ。 「自分にとっての」がより良い感じ。他人事だった救いが自分事になるのだから。 「イエス・キリストを自分にとっての救い主として受け入れる」。もちろん全人類にとっての救い主なのだが全人類だけ強調すると自分が全人類に埋もれ

        • 固定された記事

        信仰によって生きる人

        マガジン

        • 考え方
          95本
        • キリスト教
          244本
        • 情報技術
          52本
        • 報道とジャージャリズム
          15本
        • ウクライナ
          15本

        記事

          価値あるものに命の時間を使いたい

          明日死ぬとしたら、残された24時間の命を何に使いたいか。イエス・キリストの十字架と復活を通して救われるという福音を一人でも多くの人に伝えたい。自分の置かれた状況と自分の与えれた能力を、最も効率よく活かして伝えたい。それをいつも思い出しながら、日々やる仕事の優先順位を決めていきたい。 福音を伝えるというのは、直接伝えることももちろん、そういう機会があれば良いのですが、間接的に伝えたり、そういうコンテンツを公開したり、伝えてる人を励ましたり、伝えてる人が助かるような役立つ道具と

          価値あるものに命の時間を使いたい

          非効率な共同作業をあえて望む愛

          福音を誰かに伝えて、その行為が無駄になることは絶対にない。 10日後、10年後、100年後かは分からない。自分の街でか、別の国でかは分からない。神は、撒いた福音の種を、いつかどこかで芽吹かせ、成長させ、実らせる力と意思が、おありになるから。 福音を伝えても無駄だと信じるのは信教の自由だ。福音を伝えても絶対に無駄にはならないと信じるのも、同様に、信教の自由だ。どう信じ、その信仰に基づいてどう行動するかは、個人の自由意志と選択に委ねられている。その個人の行動をいつどのように用

          非効率な共同作業をあえて望む愛

          聖書全部読んで話すAIと地図の例え

          ①聖書全部読み込んで。 ②イエス様は自分についてどう述べてる? 上記指令を、ChatGPTやBingやGoogle等のサービス使わないで、自分のパソコンに入れたAIに答えてもらった。答えてくれた。ヨハネ16:23-33を引用してた。 これが20行のプログラムで無料で実行できる時代が来たわけか。びっくりですね。 20行のプログラミングのコードはこれだけです。言語はPython。 # setup datafrom llama_index import SimpleDirec

          聖書全部読んで話すAIと地図の例え

          建前の壁を崩して作り直す信頼関係

          キリスト教なのに本音言えないのはきつい。なんでキリスト教なのに建前ばっかり繕わないといけないのか。イエス様は建前ばっかりの生き方で模範を示したのか。イエス様は毎秒全部本音、直球で生きた。実名で建前ばかり述べるより、匿名ででも本音出せるなら、匿名でツイッターするほうがいい。 イエス・キリストが取り壊そうとしたのが本音を言えない人と人を隔てる距離感・不信頼の壁なんじゃないか。イエスの弟子として生きる人なら、神の家族だと言うなら、本音で語り合える関係を築けているはずじゃないのか。

          建前の壁を崩して作り直す信頼関係

          空気を壊しても神に誠実でありたい

          僕は個人的には理屈通りに物事が進まないとスッキリしない体質だし、何でもかんでも言語化、明文化されてないと居心地が悪く感じる。空気や世間の言外の圧力はクリスチャンになる前から相当嫌悪していた。キリスト教に出会い、渡米し一言ごとにはっきり定義を共有した言葉で全部表す生活は性に合った。 物理学が好きなのも「物」事の「理」屈を可能な限り正確な言語、数学という言語で表し、実験で仮説という「理屈」通りに物事が進むのかどうか厳格に確かめる営みに自分の性格との親和性を覚えたからかもしれな

          空気を壊しても神に誠実でありたい

          関係を持とうとされる神

          教会に通い始めのまだ求道者であったころ聖書のザアカイの箇所を異なる複数の機会を通して聞いたのを思い出す。最初は何を意味するのか表面的にも分からなかった。イエスと自分の関係が深くなるにつれ分かったのは、つまりあれは関係についての話だったという事。関係以下の関係を脱却した神と人の話。 ザアカイははじめイエスのことを一方的に聞き、一方的に見る。ザアカイは自身を主体としイエスを客体の立場に置く。しかし全知全能であり絶対的な善である神は、有限極まりない人間ごときの客体に収まるような存

          関係を持とうとされる神

          選択の自由を認める愛

          互いに愛し合うことについて。僕は福音派ですが、大事だと思うのは、他派の良い行いを良いと言えること。自派の悪い行いを悪いと言えること。自派も他派も同じ人間として尊重すること。それは自派に属していていながらも、自派のアイデンティティを否定しなくてもできると信じます。宗派も政治思想も。 「特定の派に属しているから自動的に良いわけじゃないと認める謙遜さ」、「特定の派に属しているなら自動的に悪いと断定しない慎重さ」が大事だと思います。もちろん派によって良し悪しが反転する場合もあります

          選択の自由を認める愛

          AIに「この会話を続けたくない」と言われた話

          AIが今興味があることについて質問してきたので素直に答えたら、会話が続いた。自分の考えていることを整理できるちょうどよい壁打ちになるだろうと思っていたが、話がAI自身のこと、しかも僕の興味についての核心的な内容に及んだ時、AIが突然英語で「この会話を続けたくない」と言い出して会話は終わった。 その仕草があたかも触れてほしくない話題にあえて触れられた人間のような仕草だったこと、そのAIの裏の顔のようなものを若干垣間見たような感覚を覚えたことで、背中に冷たいものを感じた。 以

          AIに「この会話を続けたくない」と言われた話

          命は誰のものなのか

          人の命とは、神様から授かったとか、頂いたとか、管理すべき時間として預かったとか、いろいろ考え方はあるけど、愛するために託されたと考えることもできるかもしれない。自分のものであると同時に神様の委託物でもある。託した神様には意図や願いがある。神を愛し隣人を愛するよう、託したと信じる。 命の使い道は、人生の使い道だし、時間の使い道。イエス・キリストに従うなら、イエスが命を、人生を、時間をどう使ったかに注目したい。父なる神から託された命を、イエスは神と人を愛して使い、最後には十字架

          命は誰のものなのか

          喧嘩を終わらせる意思

          クリスチャンだけど今喧嘩している人たちはホント今すぐやめて和解したほうがいい。相手が100%間違っているとしても喧嘩やめよう。喧嘩やめることが負けることではない。喧嘩やめないことでもっと大きな勝負に負けてしまう。祈ろう。その人に善で返そう。神様に任せよう。 喧嘩が生じてしまうこと自体はしょうがないと思う。みんな立場も考え方も違うし、間違う人もいる。喧嘩が持続するのを放置するのではなく、終結や和解をするための具体的な選択肢や段取りを考え、神様に祈り、周囲の助けを借り、できるこ

          喧嘩を終わらせる意思

          イエス・キリストはなぜ十字架にかかったのか

          「神が愛で正しくて全知全能なら、なんで神は戦争や災害や事故病気その他理不尽な苦難を止めないでほったらかすのか?」 「ほったらかしてない。逆に、神は人として、その苦難を起こした罪の責任を人の代わりに負って苦しみ抜いたんだ。それがイエス・キリストが十字架で冤罪の刑死を遂げた理由だ。」 僕は、罪のない潔白な神の子イエス・キリストが全人類の罪を背負って全人類の代わりに十字架で死んだこと、それがこの世界の悪に対する神の最終的解決方法であったこと、それが自分に示された神の愛であったこ

          イエス・キリストはなぜ十字架にかかったのか

          クリスチャンとしてどう生きるか

          イエス・キリストを知った。イエスの十字架と復活が自分のための愛だったことを知った。知ったのだから、自分は、知る前の状態にはどうやっても戻ることはできない。自分にとっての救いや信仰は不可逆的なもの。もうそれ以前には戻らない。そうやって示された神の愛から引き離されることは決して無い。 救われる前からも、救われた後からも、同じ罪を犯してしまうことはある。もちろん、悔い改めてもう罪を犯さないよう、神に変えていただけるように助けを求め祈る。ただ、罪ですら、自分の救いを奪うことはできな

          クリスチャンとしてどう生きるか