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命は誰のものなのか

人の命とは、神様から授かったとか、頂いたとか、管理すべき時間として預かったとか、いろいろ考え方はあるけど、愛するために託されたと考えることもできるかもしれない。自分のものであると同時に神様の委託物でもある。託した神様には意図や願いがある。神を愛し隣人を愛するよう、託したと信じる。

命の使い道は、人生の使い道だし、時間の使い道。イエス・キリストに従うなら、イエスが命を、人生を、時間をどう使ったかに注目したい。父なる神から託された命を、イエスは神と人を愛して使い、最後には十字架の上で全て、人に与えてくださった。神の子イエスは命を託した天の父の意図を成し遂げた。

自分の命、時間、人生をどう使うか、自分の自由だ。神が自分に命を託す時、紐付き予算のように使用目的を強制的に限定することはなかった。神は人に自由意志を与えられた。神を愛し人を愛することは、自由意志による自らの選択を通してのみ、真に成し得るものだ。強制で無理にさせたら真の愛ではない。

命を考える時、命の本来の製造元が神であることを知ること、製造者の意図を理解すること、製造者と自分との関係を考えることが大事だと思う。神と自分との間で愛の信頼関係が成立している場合のみ、神の託した意図と、自分の願いとが両立し、同じ意図を持って協同作業でき、神と人を愛せるのだと思う。

クリスチャンになる前自分は、神を心に置かず神の存在を認めず、神に感謝することなど何もないと考えていた。その時は命も時間も自分のものだとしか考えてなかった。しかし、イエス・キリストに救われ、神の子とされた後、自分の命でもあるが同時に託された命としても自分の命を認識するようになった。

思うに、自分の命をどれくらい尊く認識するかは神と自分との関係によるのだろう。神が自分の一人子であるイエスの命すら代価として支払って買い取った命、それほど尊く自分の命を考えてくださった。自分にとって天の父なる神が大事なら、その大事な存在が、意味と意図を持って与えた命も同様に大事だ。

自分の命だけではない。他者の命も、同様に神が創り、神と人を愛することを願って他者に託した命なのだ。自分にとって神が大事なら、その神が大事にしている命だから、大事だとなる。その他者の命のためにもイエスは死んで復活された。愛してくださった。だから人の命は無条件に尊いと断言し信じれる。

だが、自分と神との間に何の関係もなく、むしろ神など存在せず、命が存在する理由もない。他者の命にも存在する理由がない。そういう世界観で生きていたとしたら、命を無条件に尊いとする理由がなくなるのではないだろうか。自分には思いつかない。本当に「命は尊い」が当然なら悪は存在しないだろう。

当然のものとして命の尊さが全人類に共有され、理由もなく全人類が互いの命を大事にすることが実践できているなら、「命は尊い」それは当たり前で理由などいらないと言えるだろうが。わざわざ命の尊さを改めて考えなければいけないほど、悪と苦しみがあふれるこの世界は何かが壊れているのではないか。

壊れているものがあるとすれば、それは人と神の関係なのだと思う。その関係を根本的に修復できる唯一の道が、イエス・キリストを、彼の生き様、教え、死に様、復活を知り、それが自分のための愛だったと、受け入れることだと信じる。だから、いつかは、世界の問題は解決できるとも信じることができる。

だから、先に神との関係を修復してもらった自分としては、拙いながらも、イエスの真似をして、自分の能力の範囲で、自分なりのやり方で、できるだけ神と人を愛し、大事にし、修復役を担ってくださったイエス・キリストのことを紹介することに、自分の時間を、人生を、命を使っていきたいと願っている。

画像:The Creation - Michelangelo


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