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復活と世界の仕組みに向き合う

理系の自分がイエス・キリストの復活とどのように向き合って、どう考えて、どう信じているのか、言語化したい。

自動車を整備していた祖父と、炭鉱掘削機械を設計していた父の影響か、幼少期から物理、化学、生物に興味があり、学校教材以外の本や科学雑誌を読み、DNAの模型を自作するのも遊びだった。

最初は理科の教科書をそのまま信じるような向き合い方をしていた。「鉄は塩酸に溶ける」と教科書が示すなら、「鉄は塩酸に溶ける」のが事実だと受け取った。単純な向き合い方だったと思う。当時最新の科学雑誌に「高純度鉄は塩酸に解けない」と書かれていたのを見て、科学への向き合い方が変わった。

「科学法則」と呼ばれているものは、実際には「現時点の把握可能な観測精度においては、特定の条件下では、他の説より相対的にもっともらしく矛盾なく自然現象を解釈できる説明」にすぎなかった。観測精度が上がったり条件が変わると「法則」が「実際の現象」と矛盾し、説明を変えざるを得なくなる。

運動中に放つ光も静止中に放つ光も速度が同じであることが昔は観測できなかった。それまではニュートン力学でもっともらしく矛盾なく説明ができていた。しかし精度が上がり、それを観測できるようになると、実際の現象と矛盾する説明だと分かり、アインシュタインが相対論という新しい説明を加えた。

人間には限界がある。人間は小さすぎるものは見えないし、大きすぎるものも見えない。道具を作りより小さいもの、より大きいものを観測できるようになってきているが、無限の精度を持つ器具は永遠に作れないだろう。今「誤差」として見過ごされる数字の中に、矛盾と新しい説明が隠れているというのに。

世界は実際はどういう姿をしているのか、世界が実際はどのような仕組みで動いているのか、観測誤差の範囲内では分かるけど、それ以上は知ることができない。ずっと追いつけない追いかけっこなのは分かったうえで、少しでも世界の実際に近づこうとして人生をかけて探求し、もがくのが科学者の営みだ。

そのような科学者の積み上げてきた営み、科学の歴史を知る前は、「世界には科学の法則があって、科学者はその法則を知ってて、世界はその法則に単に従っているだけだ」「あたかも法律に国民が従うかのように、科学者の書き上げてきた科学法則に、世界が従わないといけないのだ」と勘違いしていた。

現実は違った。ちょっとずつ分かるようになってきたとはいえ、人間にとってはほぼ永久的に全体像を知ることのできない、得体の知れない自然だとか世界だとか呼ばれるものがまずあり、科学者が手探りでその形に合わせた説明を模写し、実際と見比べ、延々と描いては破り描いては破りを、繰り返していた。

実際の世界は、人間が「科学法則」などと呼ぶものに従うことはない。従っているように一時的に見えていても、観測精度が上がり、その誤差が明らかになると、全く従っていないことが明らかになる。そのたびに人間は「科学法則」を書き換えてきた。自然は、世界は不透明なまま、そこに存在し続けている。

「科学」は「不完全な人の営み」にすぎない。「科学法則」は「いつでも書き換えられる可能性のある仮説の集合体」にすぎない。そんな砂のような不安定な土台の上で「〇〇は科学的だ」だとか「〇〇は科学的ではない」だとか言ったとしてその正しさをどう保証するのか?科学を何だと思っているのだろうか。

「現時点の観測精度では、これこれの環境や条件の下では、〇〇という現象は仮説通りの振る舞いをするし、仮説との矛盾が見つけられない。しかし、観測精度や環境や条件が変わると、どうなるか分からない」と言うのが誠実な、現実的な、見方、言い方、態度だ。このような説明の仕方は科学的だと言える。

もちろん、こういう見方をすると、疑似科学はことごとく潰されていく。疑似科学は、現時点での観測精度においてすら、現象と矛盾する説明をするからだ。しかし同時に、こういう見方をすると、正当に科学法則だと今呼ばれる説明も、世界の仕組みを完璧に反映したものだとは、断言できなくなってくる。

世界の仕組みはどうなっているのか。それはどうやったら分かるのか。誰か世界の仕組みが分かる存在はいるのか。人間には完全には世界の仕組みが分からない。人間は、世界の仕組みの中で生を授かり、生かされ、死ぬ存在だからだ。もし世界の仕組みを作った存在がいるなら、その存在になら分かるだろう。

あなたは何らかの世界の仕組みを作ったことがありますか?最近流行りの異世界ものの小説や漫画の作者や、映画やゲームを作る人達は「想像の世界の仕組み」を作っているとも言える。それがどういう世界の仕組になるのかは、作者が自由に決めて作ることができる。作者には別に何の法則に従う義務もない。

もし、「想像の世界を作る側の目線」を知ることができれば、また、もし「想像の世界の仕組みが作られる舞台裏」を知ることができれば、実際の世界の仕組みについても、その知見を応用できるだろう。一つ例を挙げたい。「密です3D」という「都知事になって密集団を探して解散させるゲーム」がある。

コロナ禍の想像上の東京を彷彿とさせる都市世界がゲーム内で再現されている。物理学的な世界の仕組みは現実の世界とほぼ同じになるようにできている。物体は重力で下に落ちるし、水平に運動する物体は等速直線運動を続けようとし、摩擦によって止まる。一つ非現実的な部分がある。都知事は空を飛べる

では、どうやって基本的な物理法則が全部そろっている想像の世界の仕組みの中で、都知事に空を飛ばすことができるのか。「密です3D」の開始画面を開くと最初一瞬だけ、「Made with Unity」というテロップと共にUnityというソフトウェアのロゴが出る。Unityはゲームエンジンと呼ばれるソフトウェアだ。

ゲームエンジンとはゲーム内の世界の仕組みをあらかた全部規定したものだ。ゲームの作者が変えたいところだけを変えれば、自分の思い通りのゲームを作ることができる。世界の仕組みが全部最初から揃っているので「都知事は空を飛べる」と書けば、世界の仕組みはそのままで都知事だけ飛べるようになる。

「書く」とはどういうことかというと、作者がプログラミング言語を使って、世界の仕組みの中で、都知事という存在がどういう存在になるのかを定義するということだ。そうすれば定義したとおり、書いた「ことば」のとおりに、世界の仕組みが一部追加、変更、修正される。「ことば」だけでそれができる。

ゲームエンジンの中には、世界の仕組みとして、科学法則があらかたすでに定義されている。しかし、作者はその定義された世界の仕組み・科学法則に、従うことを強制されない。作者は自由にその仕組を改変し、自分の願う通りの世界の仕組みを作れる。ゲームを起動すれば、ゲームの中ではそれが実現する。

世の中にはたくさんのゲームがある。ゲーム中で人物が死んでも復活することができる作品はごまんとある。それを非科学的だと批判する人はいない。そんなものゲームの作者の自由だ。作者が人が復活するという世界の仕組みをプログラミングして定義したのだから人は復活するようになる。当たり前の話だ。

ゲームだけじゃない。映画、小説、漫画でも作者が復活させると決めたら、その人は死んでも復活する。その世界がどういう世界になるのかを決めるのは、定義するのは、ただ作者の自由だからだ。作者が法則に従わないといけない立場にあるのではない。当然に、作者が自由に法則を定義できる立場にある。

想像の世界の仕組みを作り、鳥山明氏はドラゴンボールで、自分の命と引換えに世界を救った悟空を復活させた。ウォシャウスキー兄弟はマトリックスで救世主となるネオを復活させた。現実の世界の仕組みを作り、神は人類を救うために自分の命を犠牲にし、十字架で死んだイエス・キリストを復活させた。

「神によるイエスの復活は科学的ではない」という主張は「神は、人間が立てた不透明な仮説の集まりにすぎない科学法則に従う義務がある立場にある」という前提に立たないと成立しない。神が世界の仕組みの作者であれば、神はそんな義務に従う立場にはない。神は実際の世界の仕組みを定義する立場にいる。

結局、イエス・キリストの復活を受け入れるかどうか、信じるかどうかは、世界の仕組みを定義する側の立場に立つ存在として、神を認め、受け入れるかどうかにかかってくる。我々の生きるこの世界がどのようにして存在しているのか。世界はただあるのか、誰かに作られたのか。世界観・世界認識の問題だ。

今現在観測可能な精度で分かっているのは、この世界、宇宙には、背景放射と呼ばれる微量の電磁波が、つまり薄い光が、宇宙の一面に広がっているということだ。この光の広がり方を過去に遡って逆算すると、宇宙の全質量とエネルギーが、ビッグバンと呼ばれる過去の一点に収束することが予想されている。

ビッグバンより前に何があったのか、何もなかったのか。どうやってどういう仕組でビッグバンが起きたのか。人間にはこれを観測することができない。人間にできるのは想像して仮説を立てることだけだ。その仮説を検証するための実験もできない。「世界はある時始まった」ということまでしか分からない。

そして「世界が始まったときには、膨大な量の、それこそ全宇宙の質量とエネルギーに相当する量の、光が一点に輝いた」らしい。人類が昔から読んできた聖書という書物に世界の始まりの説明がある。はじめに神が天と地を作ったと。神の「光あれ」という「ことば」によって「光」ができ世界が始まったと。

自分は、ビッグバンが無から起きたと仮定したとして、その仕組みを説明することができない。またどんな科学者にもこれを再現可能な実験で検証可能な説明はできないと思う。世界の仕組みを定義できる立場にある全知全能の神が、科学者がビッグバンと呼ぶその「光」を作ったという説明には納得がいった。

聖書には神が世界の仕組みを定義する立場にある存在として説明されている。いつ現実と矛盾するか分からない科学という営みは、自分の世界観の前提を構築する土台としては砂のように不安定なものだと思う。自分は世界観の前提を構築する土台として、神のことばを岩のように強固なものだと信頼している。

自分が神を信頼する根拠はイエス・キリストだ。神は全知全能だ。イエス・キリストは自身を神の子だと主張した。イエスを見た者は、神を見たのだとも主張した。イエスの人生、生き様、死、そして復活は、愛と神の力を表したものだった。それを当事者として目撃した弟子たちが命を賭して証言し、模範とし生きた。

イエスの生き様と死に様はただことばとして聖書に記録されているだけではない。イエスの生き様と死に様に倣って生き、死んでいった、そしてイエスの復活を目撃し、それを自分自身の生きる希望とした歴代のクリスチャンたちが、当時から現在まで繋いできた。自分もその生き様に触れた。だから信頼する。

イエスによって人に示された神は、全知全能であり、かつ正義であり、かつ愛の神だった。愛は関係を前提としている。人と神は本来は愛し合う関係にある。しかし、人間は、心の中で、神を「世界の仕組みを定義する権威者の立場」に置かず、神のそのような立場を認めなかった。神と人の関係が破綻した。

イエスは神の子として、その破綻した人間と神との関係を取り持つために、神の立場であるのに、人間と同じ立場まで降りてきた。そして、人の心を神に向けるために、生き、教え、愛し、人に模範を示した。しかし人はイエスを受け入れず、何も悪いことをしてないのに冤罪を被せ、十字架にかけて殺した。

人がイエスを十字架で殺したのは正しくイエスが間違っていたのか。もしイエスが死んだまま何も起きなかったら、そういう誤解が歴史として残ってしまったかもしれない。しかしイエスは正しかったことを、他でもない神ご自身が証明した。イエスを復活させることを通して、神はイエスの正しさを示した。

イエスの復活を通して示されたのは、イエスの正しさだけではなく、神の全知全能の力だ。人を復活させることなど全知全能でなければ、世界の仕組みを定義する立場にある存在でなければ、できない。イエスの復活をを目撃した500人以上が証言した。殺されても必死に「イエスは復活した」と証言した。

自分には、この証言者たちを、この証言者たちから証言を聞いて信用して、さらに次の世代にその証言を残した人々を「嘘っぱち」だと否定できない。命をかけて、実際たくさんの人がその証言をしたがゆえに殺されている。殺されてまで嘘の証言をする動機を自分には説明できない。復活の証言者らを信じる。

復活を信じる最大の理由は、自分が救われたという事実だ。神との関係を破綻させた自分は、神を神の立場に置かず、神の立場を認めず、神に対して罪を犯し、反逆し、敵対する立場に立っていた。罰は免れない状況だった。それをイエスが代わりに背負い十字架で死んだ。イエスの死は自分の身代わりだった。

イエスの負った犠牲により、自分は神との関係を回復させてもらった。以前の神に背いた自分の姿は、イエスと一緒に十字架につけられ死んだ。そして、イエスが復活したように、神との愛の関係の中で新しく生きる自分の本来の姿が復活した。これが自分の救いで起きた出来事だ。復活を身をもって知った。

イエス・キリストは我々の罪のために十字架で死に、我々が新しい命を得て、新しい人として人生を生きるために復活した。イエス・キリストによって救われる以前の自分では考えられないような良い人生を歩んでいる。イエスを復活させた神が、自分の人生も復活させてくれたと、これからも証言し続けたい。

追記:
「鳥山明の世界」と題された本のことを思い出した。鳥山明氏が独自の魅力的な世界観や世界の仕組みを創作し、その世界で躍動的に生きるキャラクターたちが世界中で愛されているからだろう。僕も小さい頃から孫悟空が大好きだった。ちなみに、鳥山明氏本人が、漫画の中に登場することもあった。

神の子とはどういう存在かというと、作者の子供が漫画内に登場しているようなものだ。作者の子が漫画内で作者に願い事を頼めば、作者が漫画内の世界の仕組みに介入して何でもありになる。「水の上を歩く」、「嵐を一喝して止ませる」、「5つのパンと2匹の魚を割いて5000人が満腹になるまで食べさせる」といった、「奇跡」とされる数々の現象が、聖書に書かれている。

自分は別に奇跡だとは思わない。世界の仕組みを定義した神が、自分の父なら、父に子がこうしてほしいと頼んで、父がそのとおりに子にしてあげただけの現象だ。それをその父の立場も、父とその子の関係もよく知らない人たちが「奇跡」だ「非科学的だ」と騒いでる。

どこの誰だか知らない大学生一人に、テロ対策訓練をみっちり積んだ国家公務員のSPが8人もついて護衛しているのを見たら、すごいと思うし、なんかこの子は只者じゃないと思うかもしれない。ただ、その大学は学習院大学で、その子の父が国の象徴であると憲法に定められた国家元首だと分かったら、なるほどそうかと納得するだけだろう。その父の立場と、父とその子の関係を知れば、すごい話ではなく当たり前の話になる。

鳥山明氏が亡くなったあと、海外のファンが描いた、ドラゴンボールのキャラクターたちが、鳥山氏の死を嘆き、喪に服すファンアートが話題になった。このファンアートの中のキャラクターたちが鳥山氏に抱く心情と、現実のキリスト教徒たちがイエスに抱いている心情は似ていると思う。

世界を定義する作者、作者に世界の中で定義される登場人物たちの間には、決して超えることのできない次元の壁がある。漫画作家と登場人物の間にも、神と人間の間にも決して超えることのできない次元の壁がある。だが、その次元の壁を超えて成り立つのが「愛」の関係だ。

喪に服す登場人物らのファンアートは、鳥山明氏がどれほど登場人物を愛していたのか、登場人物らがどれほど鳥山明氏を愛していた(だろうという想像だったとしても)のか、見事に表現しており、胸を打つものがあるからこそ、バズったのではないだろうか。

キリスト教が世界人口の3分の1まで広まっているのも、本来は超えられないはずの次元の壁を超えてなお愛し合う関係の尊さに胸を打たれた人たちがそれほど多かった事を表している。キリスト教徒がイエスの十字架での死と復活を感謝し神を敬う心の背景にはこれに似た心情があるのだと、説明できると思う。

"The Way to Emmaus" 1877 painting by Robert Zund

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