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選択の自由を認める愛

互いに愛し合うことについて。僕は福音派ですが、大事だと思うのは、他派の良い行いを良いと言えること。自派の悪い行いを悪いと言えること。自派も他派も同じ人間として尊重すること。それは自派に属していていながらも、自派のアイデンティティを否定しなくてもできると信じます。宗派も政治思想も。

「特定の派に属しているから自動的に良いわけじゃないと認める謙遜さ」、「特定の派に属しているなら自動的に悪いと断定しない慎重さ」が大事だと思います。もちろん派によって良し悪しが反転する場合もあります。価値観の相違する場合は相手が他の価値観を信じる自由を尊重するのが正しいと信じます。

放蕩息子に自分の考え方、価値観をあえて強制せず、下僕たちを使って無理やり連れ帰る選択肢を採らず、彼が自分の価値観を選択する自由を許容した父の愛が、最終的に放蕩息子を正しい道に導いたのだと僕は思うのです。だから、愛の中で重要な要素は、相手の選択の自由を認め尊重することだと思います。

考え方の違う相手が、悪い考え方をする自由を認めるのは、一見悪いことを奨励しているかに見えます。もちろん、放置するのは良くないと思います。相手の選択肢の自由は認め尊重しつつ、それに反対する自分の意見を伝えることは可能だと信じます。ただ前提として信頼関係の構築は必須だと思います。

自分が大事に考えており、良いと思っていることを、相手が悪いことだと考えているなら、気分が悪くなり憎たらしく感じることは当然あり得ることです。そういう考えを持つ人が存在してほしくないとさえ感じるでしょう。ただそこで価値観の違う相手の存在をまず認め不同意であることに同意したいのです。

不同意であることに同意した相手を、劣った存在として扱うことを拒否し、自分がより優れた人間であると盲信する誘惑を退け、同じ人間として認める決意と、実際外に表れる態度と行動を通して、優劣のない対等な同じ人間として扱うこと。これがイエス・キリストが教え、実践した愛であると僕は考えます。

人間より劣った人間はいません。人間より優れているのはただ神のみです。人間に優劣はない。どの派に属しても人間は等しく尊い存在として神が創造した。神の子イエス・キリストはどの派の人のためにも死んでくださって復活され、どの派の人でもそれを受け入れれば神の子とされ救われる。そう信じます。

画像:Bing Image Creator with prompt "5 doors under a blue sky"


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