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学んで思う、思って学ぶ。
その「両方」が大事ですよね!

学びて思わざれば、則ち罔(くら)し。
思ひて学ばざれば、則ち殆(あやふ)し。

学ぶだけで自分で考えなければ身につかない。
自分で考えるだけだと偏って危険になる。

そう孔子という大先生は言いましたが、
「闇雲に暗記しようとしてもムダだ」
「自己流に考えるだけだと危ういぞ」
そんなことなぞ、だいたいの方が
すでにわかっている
、と思うのです。

問題は、その塩梅、調整、です。

どっちかではない。両方やる。
それぞれの有用性と危険性。
ケースバイケースで「常に」考える。
取捨選択して決断する。決めて断つ。

そのバランスこそが「学び、思う力」、
「学習力&思考力」だと思います。

本記事は、この永遠のテーマについて、
「学校教育」と「社会人での学び」を
踏まえて考えて、自分なりに書きます。

…人間、生まれてすぐは
本当にか弱い存在ですよね。
食事も排便も、一人では満足にできない。
できないことはないですが不衛生で危険。
悪いものを食べると、命が危ない。

だからこそ保護者が面倒を見ます。
そのうち自分で食べられるようになり、
トイレが済ませられるようになり、
歩き、話し、考えることをしていく。
十八年くらい経てば成人、人に成る。
「学ぶ」「思う」ことの両方ができる。

そんな脳を持っている。

では、どこから「学ぶ」「思う」の
バランスが分かれていくのか?
…これはもう、人それぞれ、ですよね。
生まれ持った特質、個性、性格、
そのようなものが複雑に絡みます。

クセや凸凹ができがちなのが人間。

「真似」が得意な人と苦手な人がいる。
「思考」が得意な人と苦手な人もいる。
まなぶはマネるから来ています。
マネが得意な人は他人から学ぶのも得意。

きょうだいの有無も、関わりがあります。
保護者視点で言えば、
一人だけ育てるのと複数育てるのとでは
かけられる時間もお金も変わる。
過保護か放任か、そのスタイルも違う。

下の子どもであれば、上の子どもが
怒られたり褒められたりするのを見て、
「他山の石」にできるかもしれません。
一人っ子であれば、それが少ない代わりに、
大人と対話する機会が多いかもしれない。
一人遊びの機会、ケンカの機会…。
それは家庭の事情によって千差万別です。

そこに、家庭外の教育機関が絡んでくる。

「習い事」「学校」など。
早い人では乳児のうちから
「ベビー〇〇講座」に接する。
幼稚園や保育園、小学校…と
年齢を経ると、家庭「以外」の環境が増える。

そんな中で「学ぶ」「思う」の
どちらが増えていくかと言えば、
「学ぶ」のほうが多いように思います。
すでにあるものを真似していく。

◆学ぶ=他人・集団
◆思う=自分・個人


そう分けた場合、教育機関では主に
集団からの影響を受けていきます。
時には「これは身に付けなければ」と
強制的に学ばせられることもしばしば。

…このあたりは国や機関のカラーによっても
変わってくるところですね。

よく言われるのは、
日本は「他人と同じようにできる」ことを
優先させがちだ
、ということです。
しかしだからこそ、
あえて「個性を尊重」させる機関もある。

…そのように考えると、
少なくとも小学校くらいまでは
保護者の意向、家庭と教育機関の環境、
そういったもののウェイトが
非常に高いように思うのです。
(加えるなら、親戚・友達や地理・地域環境も)

ただこれが、いわゆる「自我の発達」
「思春期」「中二病」などと呼ばれる
中学生あたりから徐々に変わっていきます。

無意識に影響を受けてきた他人のアラが、
徐々に見えてくる…。
保護者に反抗したくなる。
学校の窓ガラスを叩き割りたくなる。
この支配からの卒業…!
そんな心持ちが増えていきがち。

言わば、自分という凸凹の凸、
「尖り」が増えていく時期
です。
ここで「学ぶ」から「思う」が増えていく。
この時期に自分なりに
どのように「思って」「選ぶ」かが
「人に成る」にはとても大事だ、と
私は思うのです。

私個人の例で言えば、この時期にハマった
ゲームやら小説やらマンガやら部活やらは
中年世代になった今でも
何やら鮮明に心に刻まれています。
「自分で選択した」ものについては特に。
「いい!」と思って自分で買ったCDは、
確か『世界中の誰よりきっと』とか
『クリスマスキャロルの頃には』とかだった。
記憶に刻まれるんです。年がバレますが…。

学校の「授業」でも、
好きな教科はどんどん吸収し、
嫌いな教科はしょうがなく学んでいた。
私の場合、歴史や地理は
自分で進んで「学んで」「思った」ので
今でも応用ができている感じがします。


さて、どうでしょうか。
すでに「人に成った」読者の皆様の
場合はいかがでしょう?

子どもの頃の「学ぶと思うのバランス」は?
取り巻く環境はどうでしたか?
学校の教科では何が好みでしたか?
何をしぶしぶ丸暗記していましたか?


…これが高校、大学や就職と進んでいくと
さらに千差万別です。

大学に進学すれば「論文」や「専攻」。
「学ぶ」かつ「思う」が問われます。
課題意識を持ち、自分で問いを立て、
先行研究を学びつつ、自分なりに考える。
まさに「探究」していく。

これが社会人になれば、学びつつ、
自分で思い、判断もしなければいけない。
当然、すべてを身に付けるのは無理です。
「取捨選択」をしていくことになる…。

いざ、そうなった時、

「言われたことを真似る」だけの業務か
「自分なりに考えて行動できる」業務なのか。

仕事のスタイルによって、とてつもなく
その後の成長が変わってくるとも思うのです。

誤解を招かないように言いますと、
「真似る=人から学ぶ」のが一律ダメだとか、
「全部自己流でやる」のが良い、ではない。

基礎知識、訓練、経験も必須。
バランスが問われます。
あまりに尖ると「迷惑系」と非難されます。
「守・破・離」も大事…。

今一度、孔子先生の言葉を借ります。

◆『学びて思わざれば、則ち罔し』
◆『思ひて学ばざれば、則ち殆し』

どちらかだけではダメです。
暗くなったり危なくなったりする。
どちらも完璧にすることは難しい。
ならば、どの部分を「学び」、
どの部分を「思う」のか、それを「選択する」。

他人(AI含む)に丸投げ、外注する。
自分だけで頭をフル回転して考える。


現状、興味関心、個性や特質を踏まえた
適切な見極めができるようになることこそ、
「自分なりの」学習力&思考力なのだと、
私には思われるのです。

最後に、まとめます。

本記事では、学ぶことと思うことを対比して、
バランス大事、ということを書いてみました。
思いながら学ぶ。学びながら思う。
そんな「合わせ技」も、もちろんあり。

読者の皆様は、いま、何について、
どう考えていきたいですか?
これから何を「探究」していきますか?

※こちらの記事もご参考まで↑

※ここしばらく、学校教育と塾における
「学ぶ」と「思う」について
自分なりに記事を書いておりました。

◆「令和の日本型学校教育」の取捨選択

◆教育現場とビジネス現場のファシリテート

◆受験技術も学校の教科も学ばない塾?!「探究学舎」

◆学習塾の歴史 ~戦後日本の歩みに沿って~

合わせてぜひどうぞ!

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