60年代の音楽シーンを辿る旅 Vol.4 〜 70年代へのロックの進化を象徴するザ・ビートルズ、多文化・多様性との出会い
エド・サリバン・ショー
ビートルズが「Love Me Do」でデビューしたのが1962年10月のこと。1stアルバムは1963年4月発売(英国)。
この頃は、本国版とマーケティングの先であったアメリカ版ではジャケットや曲構成が異なっています。「ラバーソウル」というアルバムあたりまではこの慣例に従ってました。なので、米国盤は希少性があり、マニアが探し求めているようです。
さて、このビートルズというバンドが初めてアメリカのメディアに流れたのは1963年の11月18日だそうです。↓
ケネディ大統領暗殺の数日前です。
当時はベトナム戦争も始まっていて、公民権運動や、キューバ危機からの核の不安などもあった時期。そんなときに期待の星だったケネディ大統領が世を去ってしまった。
リーダーシップを取っていたケネディが11月22日に暗殺され、変わってビートルズが米国にやってきた。当時、何事かをケネディに期待していた方々の喪失感を補う結果になったのではないでしょうか。(結果としてですが。)
こういう背景もアメリカでの成功のきっかけだったのかもしれません。
そして、1964年の2月に、本格的なアメリカ進出のために人気番組エド・サリバン・ショーに出演。
この番組での演奏が当時の若者の心をググッと掴んでいきました。
彼らの歌詞は、自分自身が主体となって行動していくような自由なものが多いので、(自分が○○したい!などなど)彼らの自由さに、世界の、、、特に米国のベトナムや公民権運動などに不自由を感じていた若者は憧れていったのでしょう。
このビートルズに続けと、ローリング・ストーンズなど英国のグループが相次いでアメリカに上陸。これが第1次ブリティッシュ・インベイジョンと呼ばれるにいたります。(第2次は英国発祥のニューウェーブの波が米国を襲った70年代末から80年代初期の出来事です。)
そして、ビートルズは、フランスを経てワールドツアーへと旅立っていくことになります。
ボブ・ディランとの出会い
この米国進出と、ケネディ亡き後の反戦ムードが高まっていく中、米国にてビートルズは、詩的な歌詞、世相を切り取った歌を歌っていた詩人ボブ・ディランと出会います。
特に、ジョンは彼との出会いに感化されて、「You Got Your Hide Your Love Away」という楽曲を作り上げます。これはディランとの出会いから、詩を練って作られた楽曲とも言われています。彼らの本格的なアーチストとしての目覚めだったのかもしれません。
この後、ジョンのキリスト教発言や、ライブでの狂騒(誰も自分たちの曲なんて聞いていなくて、単に騒いでるだけという思い)、さらには、もっと楽曲を練って作っていきたい、音をいじって創作をしてみたいといった思いが生まれてきました。
その果てに、彼らはライブを一旦休止し、創作活動に専念してくことになります。それは、おそらく彼らのなかの英国的なDNAを掘り起こす作業だったのかもしれません。
そして、
一、ビートルズ史上もっともブリティッシュ風味が強く(哀愁が漂う。英国の様式美)
二、ジャケット、歌詞も詩情溢れている
こんなアルバムが世に放たれます。それが「ラバーソウル」です。
英国発の英国らしいアルバムとしては、このアルバムや、クイーンの「オペラ座の夜」、デイヴィッド・ボウイの「ジギースターダスト」などが挙げられます。
この次のアルバムが「リボルバー」でした。音楽性がガラッと変わり、後期ビートルズの始まりを告げたアルバムです。
「ラバーソウル」と「リボルバー」
前者は65年12月の発売。
後者は66年8月の発売。
なんと半年くらいしか間隔が空いていません。
この半年強の間に彼らはガラリと音楽性を変えます。ベスト盤赤盤、青盤の境はこのあたりです。
ビートルズに出会ったころ、赤盤青盤のCDを手にして不思議に思ったのが、この2枚の間の楽曲の質があまりにも違っている点。
たとえばバラード調の傑作にしても「Yesterday」「Michelle」(赤盤収録)と、「Hey Jude」「Let It Be」(青盤収録)はあまりにも異なっている。
前者は古き良きオールディーズの深化・進化ですし、後者はもはや70年代ロックの原型ともいえる味わい。
それが、この「ラバーソウル」と「リボルバー」の間にも顕著なんです。
「ラバーソウル」までが、マッシュルームカットで、陽気で明るいわかりやすい、いわば模範的なビートルズとでも呼ぶべき音。
「リボルバー」以降は、70年代ロックにも通じる、ソリッドで生々しい、いわばソリッドなロックを強調した音。(後年のジョンのソロにもつながる音)
この間に起きたことはなんだったのか。
これは前述のライブ停止からの思索・創作の旅に出た結果でもありますし、彼らの人間的な成熟でもあったのでしょう。
ブライアン・エプスタインが影響力をなくし、後にこのあたりのことが遠因で世を去っていくことも影響しているかもしれません。(67年8月死去)
この2枚の間で彼らは途方もなく変わりました。ここからは、誰も後を追えないような高みに登ったとも言えるでしょう。
並行して、後述の非西洋化の流れからの多文化、多様性の吸収、ジョージの目覚め、米国のヒッピー文化の感化などもあったでしょう。
「リボルバー」以降は、まさに音もサイケデリックで、ファッションもヒッピー風になっていきます。
■ラバーソウルからの楽曲
■リボルバーからの楽曲
ジョージ・ハリソン:インドへの模索の旅と作曲の芽生え
ここにきて、ジョージの存在感が増してきます。ジョンとポールの陰に隠れていたジョージが、その精神面、音楽の作曲面で頭角を現してきます。
やはりジョン、ポールの陰にいることを意識せざるを得なかったのではないでしょうか?
そんな彼は、以下の2点で頭角を表します。
1,ジョージ、インドへの接近
これは、60年代ジャズやマイルス・デイヴィスによるモード手法の発展とリンクしているようにも見えます。
「モード」という言葉があります。
これを文字通り説明するといまいち、よくわからないです。即興をコード進行ではなくモード(音階、旋法)を中心に組み立てるというもの。
歴史的には、1954年に教育機関においての人種隔離政策が終焉し、公民権運動が盛り上がっていくような時期。
この時期にこのモード奏法が生まれたことは、なんという歴史の符合か!と思いますね。。
つまりどちらも(公民権運動もモード奏法も)広義には黒人・黒人文化の白人・白人文化からの解放という面があるからなのです。
モードとは、和音=コードの束縛から離れていくことでありまして、西洋音楽・クラシック音楽はこのコード・和音に基づいているわけです。
モード=非西洋=西洋からの解放、非西洋→東洋、中近東、アフリカ、南米への接近、東洋の神秘、インド仏教、神秘主義。。目に見えないものに価値を見出す世界。(西洋科学とは違う視点という意味合い)
このマイルス・デイヴィスのアルバム「Kind of Blue」(1959年発表)は、モード奏法の最初期のアルバムです。レコーディング参加メンバーにも、この後、この西洋からの解放が見られるのは面白い一致です。
マイルスはロックと接近しますし、ジョン・コルトレーンはインドや東洋の神秘性にひかれていった、そしてビル・エヴァンスはこのアルバムの制作過程を中国や日本、つまり東洋の水墨画に照らし合わせてライナーノーツを書いています。
同じ時期に、ビートルズのメンバーがインド詣でをしていました。この時期は西洋社会にとっては、そういう外へとエネルギーが向かう時期だったのかもしれません。
50年代から60年代というのは、恐らく世界的に、モードの広まりとともに、精神が西洋から東洋へと向かっていった時期なのでしょうか。
ジャズについて語れば、この非西洋への接近が他のジャンルとのクロスオーバーを実現させ、フュージョン(ジャコ・パストリアスなど)などといった新ジャンルを生み出す一方で、このことが古き良きジャズの息の根を止める結果になっていきます。
ロックの世界では、このクロスオーバーが音や色彩でサイケデリックという流行につながっていき、ファッションや音楽が、サイケ一色に染まっていくことになります。結果的に、クロスオーバーは多様性を認めることにつながりますから、ここにきて、伝説的な黒人ギタリストが登場してくる土壌が出来上がっていったとも言えます。
ジョージが、インドで出会い、親しくしていたシタール奏者はラヴィ・シャンカールという人物。
なんと彼はノラ・ジョーンズの父親です。
ジョージ亡き後のトリビュートライブで、ノラ・ジョーンズがジョージの曲をカバーしていたのは、、なんというか、輪廻転生というか、生命のつながりの不思議というか。。そういったもの感じます。
2,ジョージ、作曲面での芽生え:他ミュージシャンとの交流
また、ジョージはエリック・クラプトンと親交を深めジョージの曲でクラプトンがギターソロを演奏することになります。(「While My Guitar Gently Weeps」)
後年、彼が日本公演をエリック・クラプトンと行うことになりますが、これにはこんなきっかけがありました。
他のミュージシャンとの関係性の結果として、彼に秘められていた作曲能力が開花していった側面もあったでしょう。
ビートルズでの傑作がシングルにもなった「Something」や「Here Comes the Sun」
そしてソロアルバムでも大傑作を残すに至ります。
この後のビートルズ
この後、各メンバーの恋愛模様もあり、また、各メンバーの音楽的な個性もまた表に出てくるようになります。
まさに、なるようになれと言わんばかりの自由さで彼らは60年代後半を走り抜けていきました。
ジョンはヨーコさんと出会い、より自己の内面を見つめていくようになります。そしてこの時の精神の深堀が、ファーストアルバムとして結実します。
そして、ポールは、、、、。そのメロディセンスにさらなる磨きをかけていくことになり、後世に残る傑作を世に送り出していくことになります。
次回は、この悟ったかのようなポールのメロディセンスの結実や、彼を含めたビートルズ晩年の動き、そして、60年代後半の反戦ムードといった世相と合わせたロックムーブメントやフェスの動き、そして、そこから現れたとある黒人ギタリストにふれていこうとおもいます。
次回もご期待ください!!
次回はこちら↓
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