藤井風「風よ」 ~ 自然との調和 ×人生の肯定=あるがままの自分を愛すること
6月19日。明治神宮に向かう。
明治神宮は原宿方面から入る場合、行き来する人でごった返している。が、途中から左にそれる脇道に入ってみる。それはそのまま神宮の左側をなぞり、さらに分岐して、本殿へと向かう道になる。
この道は、メインストリートではないため、歩く人もまばら。
この道をしばらくいくと、原宿駅前の喧騒も、うっすらとしか聞こえなくなる。そのとき、自然の音が聞こえてくる。森が喧騒を遮断し、逆に自然の声を響かせてくれているかのようだ。
大木が風に揺れる音、鳥やカラスの鳴き声、時間帯や季節によっては鈴虫の音色も響いてくるだろう。
そんな鬱蒼とした森の中を歩いていてふと思うことがあった。
明治神宮は、明治期に100年後を見越して設計された森に囲まれているということだ。当時の学者や設計に携わった方々は、100年後、この森がどうなっていくかは生きてみることはできない。そんなことは無論承知の上だっただろう。
でも、この森を歩いていて思うのは、きっと彼らにはこの風景が見えていたはずだということ。未来に思いを託して、彼らはその人生で出来ることを成し遂げたのだと。
最近考えることがある。
地球から生命は誕生した。ならば、地球、自然界と生命はそこに在るだけで調和しているはずだ。おそらくそこに在るだけで価値があるとはこういうことなのかもしれない。
そして、人だけは、衣服を纏っている。衣服には色がある。人にはそれぞれに、似合う色がある。それがパーソナルカラーだ。その似合う色を纏うことは、人と衣服が調和していることにならないか。
そして、似合う色の衣服を纏っている人が、自然の中にたたずむということは、すなわち自然と人が衣服の色を媒介として(または衣服が人を媒介として)調和しているということにならないか。
その状態は、あるがままなのだろうとおもった。あるがまま。そのままでよい。
そう考えると、とても楽になった。安心できるよりどころを見つけられた気がした。
最近、考えることがある。
34種類のストレングスファインダーは、人の才能であると同時に、特徴でもある。プラスマイナスではなく特徴。その特徴にはネガティブもポジティブも含んでいる。
4種類のメンタルモデルは、人が抱え込んだ痛みの分類であると同時に、特徴でもある。その特徴にはネガティブもポジティブも含んでいる。ネガティブ、痛みが回避行動となって出現している。
そう考えるならば、ネガもポジもその人の特徴なのだ。良いも悪いもない。特徴だからこそ湧いて出る感情や思いは、実はその人自身の表れなのだ。
そしてメンタルモデルには、回避行動への対処方法も存在している。メカニズムがある。ならば、その特徴自体も可変させていける。
そう考えると、とても楽になった。無論、ネガティブな感情は日々湧いて出る。他者や自分に対して「なんであんなことを言うんだろう」「なんであんなことをするんだろう」という思いが湧いて出る。でも、それも自分自身なのだ。無理にポジティブに変換しようとしなくてよい。この感情とメタ認知的に向き合えばよい。すぐには、ネガは消えない。ネガはそれほど強い。でも向き合えば、時間はかかるけれど心で対処できるようになる。それもまた、自分なのだ。聖人君主ではないのだ。ネガを否定する必要はない。良くも悪くもない。
その状態は、あるがままなのだろうとおもった。あるがまま。そのままでよい。
この記事を書いてる今も、さまざまな感情が浮かんでは消えていく。その感情にはネガもポジもある。凹凸がある。おそらくこの凹凸こそが、人生の奥ゆかしさなのではないだろうか。平らな道を歩むよりも、予期せぬ凹凸があるほうが、面白い旅になるのではないだろうか。
もちろん、凸の時期は、「怖いものなどないマインド」だ。だが、凹の時期はそれなりに凹む。痛みを感じる。でもそれでいいのだ。
自然との調和。
この先には、人生の肯定があるのではないかと思うようになった。
それはつまり、凹凸含めた自分自身を自分自身が愛するということだろう。ありのままの自分を。
談志師匠が生前語っていた、「落語は業の肯定である」とはつまり、こういうことなのかもしれないなとふと思った。
明治神宮の本殿を抜けた先。北の方に広場がある。ここまで足を向ける人は、あまりいないようで、人影もまばら。そんな場所にも森がある。日陰になる場所がたくさんある。その場所に行き、日陰に座る。裸足になり大地を感じる。子供のように寝そべって空を見る。眼鏡やコンタクトを外して自然の風景を見る。
その状態は、あるがままなのだろうとおもった。あるがまま。そのままでよい。
風が吹き抜けていく。
その風を感じながら、こんなことを考えていた。