感情が見えるかどうかは関係ない

昨日こういうnoteを書きました。


移住者仲間のたけさんが開いた生ハムの会。
山に入って猟をする猟師ふたりの話がすごく印象的で、今日はその話について。

たけさんが獲ってきてつくった生ハムや料理を食べながら、猟銃の玉が当たっても生きていた鹿の話を聞いた。
まだ意識があって、動けずに鳴いている。
その鹿の喉元にナイフをあてたとき、どこから出るんだと思うような、悲しげな高い鳴き声を出したそう。

動物だって、最期のときを悟るのだ。

私はその話を聞いて、私には猟は無理だな、なんてふと思った。
私は血が怖いし、目の前で鳴かれたら躊躇する。目の前で絶命する瞬間に向き合う覚悟がない。
そうなると、もしかしたら漁師も向いてないのかもしれない。

「あれ、私は漁師で大丈夫なのか…?」なんて、ちょっとだけ思った。

とはいえ、漁師と猟師は生き物の命と向き合う職業。共通する部分があるから、やっぱり私も漁師だ。

猟師は無理だ…ってなると、「じゃあ漁師としての牡蠣はどうなのよ?」ってなるかもしれないけど、結局のところ同じだ。
牡蠣だって生き物だし、ひとつひとつ命がある。

ただ、殻をむいたら牡蠣は死ぬって思ってる人もいるかもしれないけど、実は牡蠣は殻をむいても生きている。
貝柱の下あたりにある透明な玉が牡蠣の心臓で、殻をむいたとしても心臓を壊さない限りは生きているのだ。

でも、私が殻をむくのを失敗して身をぐちゃぐちゃにしたり、心臓を傷つけることで牡蠣は簡単に命を終えることになる。

猟師の猟銃がむき身ナイフや鉈という道具に変わっただけで、私も変わらないことをしている。

血が出ない、鳴き声を出さない、というだけで、鹿も牡蠣も変わらない。
野菜もそう。ほんとは1個体の生き物。

作物や鳴かない生き物は感情が見えない分、その命をいただく迷いはなくなるかもしれない。
でも、感情が見えようが見えなかろうが、ひとつの命を大切にしなければいけない。


普段何気なしに食べている食材たち。
食材を育てたり獲ったりする一次産業者の人たちは、人間たちの"食べ物"となる生き物の死の瞬間を一身に受けることを自ら請け負っている。


そういう人たちがいるからこそ、日常的においしい食べ物が食べられるって思ったら、生き物たちからいただいた命を粗末にせず、きちんと食べようと思った。
そして、自分もひとりの一次産業者としての意識を日々忘れずに持っていないとね。

全然言葉がまとまってないけど、猟の話を聞いてからずっと考えていたことでした。


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