40年という月日を経て、残った人たち
雇い主家族たちは交友関係が広いこともあって、うちの職場にはいろんなお客さんたちが来てる。
来るって言ってもそんなにしょっちゅうじゃないけど、みんななにかで繋がった人たち。
そんなわけで、朝に少しだけ沖作業をして陸上に戻ってきたら、お客さんたちが来ていました。
今日のお客さんは上智大学の先生とゼミ生さんたち。津波の語り部をやっている方と一緒に、うちの会長さんのお話を聞きに漁港に来た。
先生いわく、震災当時まだ中学生だったゼミ生たちに、社会人になる前に震災のことや地域のことを知ってほしいという気持ちで来たとのこと。
学生さんたちがあらためて震災のことを知るのって、もしかしたらきっかけがないと難しかったりするのかもしれないね。
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震災を経験した地域の人たちは、みんなが語り部。ひとりひとり、みんな違う経験をしている。
津波で車ごと流されて、流されながら途中にあった木にしがみついてなんとか生きることができた人。
自宅が津波で流されて、壊れるところを高台から見ていた人。
津波直前まで資材や船を避難させるために海に出て、引き潮の中どうにか陸地まで戻ってきたけど、結局津波で自宅も船も流された人。
その中に、生死に関わることはたくさんあるけど。私はそれについて深く聞くつもりはない。人によって傷の大きさは違う。
話せる人は自分から話すし、話せない人には聞かないし。それだけだ。
なにはともあれ、うちの会長さんは陸前高田の漁業も市内のことも政策も、広くわかっている外交役なので、こういうご依頼はほんとに適任なのです。
(元市議で松原再生やロータリークラブなど、市内外に関わるいろんな活動をしているから、いろんなことに詳しいの)
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私はお客さんが来ている間は牡蠣の掃除をしていたからなにを話してるんだろうって思ってたんだけど、あとで聞いたら、震災前と震災後の陸前高田のことや小友町の漁業について話してたらしい。
(私が働いている小友町にはふたつの海がある。上の写真は太平洋に直接面した表の浜。下の写真はリアス式海岸で湾になっていて、「浦浜」と呼ばれている。
私が普段いるのは浦浜。)
昼ごはんを食べながら会長の話をちょっと聞いてたんだけど、はっきりとした数字がちょっと衝撃だった。
いまから40年くらい前、小友町の浦浜には78人の牡蠣漁師さんがいた。
社長が代替わりをしてから震災前までは大体35人くらい。
(ちょっとうろ覚えになってしまったけど、震災前はたしか35人くらいいたって聞いた気がする)
そして、震災後のいまは9人。
ひとつの地区だけでもかなり減ってる。やばい。
(ちなみに、陸前高田には大きくわけて「広田/小友/米崎/気仙」の4つの浜区分けがあるのだけど、高田全体で見たらもっとあれだね……。)
高齢化と後継者不足、そして震災。
色々なことを経て、この人数になった。そしていまも、高齢化した後継者のいない漁師さんは規模縮小だったり廃業を考えてたりする。
この問題って、全国各地どの業種でも起こっていることだと思うけど、漁業の衰退具合もなかなか深刻だと思う。
他の国だと伸びてる業種なのにね。これってイメージの問題なのかな?だれか教えて。
まだこの問題に対して自分がなにができるのかまだはっきりしてないし、いきなりガラッと変えることなんてできないから、色々と少しずつやっていくしかないと思うんだけど。
noteを書き続けることで、ひとつのきっかけになればいいな〜〜なんて。
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とりあえず、お客さんが来ることが割と普通な職場なので。職場見学とか会長のお話しとか興味があるよって友達がいたらうれしいので、あそびにきてね〜。
(牡蠣出荷のピーク期にあたる12月とわかめのピーク期にあたる4月以外であれば、たぶん大丈夫だと思います〜。)
私のnote、読んでくださってありがとうございます。 もしも「いいな」と思っていただけたら、感想と一緒にRTやシェアしていただけるとうれしかったりします。。