ひとりぼっちのあの日
先日、あたらしく出す本にまつわる記事を書いた。
正直、書いても反応はないだろう そう思った。というのもnoteは共感される素朴な内容やメッセージ性の強いものが主に受けるからだ。だから書いた後しばらく放置しておいた。
しばらくして、おそるおそるパソコンのふたを開けてみると、めずらしく5人の人から「スキ!」が付いていた。
「スキ!」が付くこと自体が必ずしもいいという訳ではないが、このところどんなにいい内容を書いてもnoteではパっとしなかったから、正直書く気が無くなっていた。
だから珍しく反響が少しだけあったことで、もうちょっとだけ書いてみようか、と思ったのが本記事だ。
じつは、20年前のある日、私はとあるビルのオフィスにいた。
雨が降る夜の3時。都会のビルに囲まれ、濡れた窓ガラス越しにキラキラと光る夜景を観ながらひとり立っていた。
暗がりの中、ポツンと明かりを灯していた。終わらない仕事を前に、一区切り付け帰ることにした。
というのも、毎日上司から執拗に責められ、行き場のない想いを胸に、仕事をしていたからだ。
もうダメだ――。つぶれるかもしれない。
なんど思ったことだろう。ギリギリのところでなんとか踏ん張っていた。
苦手な計算、文章の修正、いつになったら終わるんだ。
まるでアウシュビッツの強制収容所に入れられた気がしていた。
誰もこの苦しみをわかってはくれない。顔では苦笑いをし、はらわたでは煮えくり返っている。いったいどうしたらいいんだ。
目の前の敵を前にして、反抗できない自分がいた。まるでヘビににらまれたカエルだ。
だが、ある日のこと。役員会議に資料の修正が間に合わないのはオマエのせいだと責めに責められた。
翌月曜日の会議に間に合わない。「アンタのせいや」。そう言い放つと、上司はタバコを吸いに席を外した。
なんでここまで言われなきゃいけないんだ! 僕が何をしたって言うんだ。
ふつふつと内なる怒りが上からフタをしようにも煮えたぎってきた。
気づくとパソコンで売っていた文字の修正がにじみはじめている。画面なのに――涙でにじんでいたのだ。
いい加減にしろう! もうたくさんだ!
いつまでやれって言うんだ!
激しく想いをぶちまけると同時に、目の前にあった画板を机に投げつけた。
生まれてはじめてキレた瞬間だった。慌ててそれまで静観していた部長や後輩たちが私を取り囲むようにして別室に連れて行った。
それからというもの、私は文章が書けるようになった。自分の体験を元にして物語を書きはじめたのだ。
以来20年近くが経つ。一見好きな仕事を選び、好きなように生きられると世の中は説く。しかし実際はそうはまだなってはいない。
強い者がはびこり、弱い者をくじく。あるいはその一方で弱そうにしている者がSNSの力を使って敵を責める。どちらにしてもあまり好ましい状況とは言えないし、あまり変わったとはいえない。
むしろひとりぼっちであっても、自分の力を蓄え、発言できる態勢を整えておくこと。批判されてもきちんと自分の主張を述べられるように準備しておくことが大事だと思う。
そのためにはいたずらに批判したり、否定するのではなく、自分はこう思う。それは違うような「気がする」といった緩やかな言い方をして、やんわりと相手の攻撃をかわしていくのがいい。特に被害者意識が強くなった現代においては――。
戦いにおいても、議論においても、夫婦ゲンカにしても、どちらか一方が悪いとしがちだ。しかし調べていくと、どちらも悪いし、どちらも悪くない。
言いたいことが言えて、自分を守ることができれば、自分の居場所は確保できる。そこからやりたいことを見つけ、カタチにしていける。
私は20年近く前のあの日、自分を初めて出し、本来の自分を出した。それから少しずつやりたいことが浮かんできてはカタチにしていった。
妻との本も3冊ある。多くの人を幸せで満ち足りた人生となるよう道しるべを提供した。まだまだ納得できるレベルではないが、それなりには満足できるレベルにはなってきた。
いま、どう生きればいいか、あまりに多くの選択肢があって迷うところだ。だからこそ、少しでもなにかのサインとなるようこれからもメッセージを発信していこう。あの日の自分に送り届けるように。
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