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「処女受胎~あれからの釈華~」『ハンチバック』二次小説<上>

※市川沙央さんの『ハンチバック』が大好きなので、その後の釈華や田中さんをイメージした物語を書きました。56000字近いため、記事を三つに分けました。好きな音楽もたくさん散りばめました。以下、本文が始まります。

 短調のピアノの調べが聴こえてきた。その曲はクラシック好きな母の影響で覚えたバッハのインベンション13番イ短調だった。不穏な音色が響く暗がりの中、一筋の光が射し、得体の知れない不気味な扉が開くと、そこには母が佇んでいた。

「釈華ちゃん…大丈夫?ちゃんと〇〇するのよ。」

 母が夢枕に立つことが増え、母の声で起こされることが多くなった。あれ以来、微熱が続いているから、心配してくれているのだろうか。体調不良のせいか昼間も眠気が抜けないし、こんな夢を見やすいのかな。肝心なところだけピアノの音にかき消され、聞き取れないぼんやりした声…。不安げな表情を浮かべながら、私に何かを必死に伝えようとしている亡き母の声が、目覚めても頭の中でリフレインしていた。まだ消えてくれない短調のピアノの音色と共に…。それは趣味で母が演奏していたピアノの音によく似ていて、少しぎこちなかった。

 バッハの曲ならシンフォニア(インベンション三声)の11番ト短調が私は一番好きだった。特にインベンションはBL漫画の存在を知り、性に目覚めた頃、よく聴いていたから何となく性欲をかき立てるピアノ曲だった。

 そのうち、まだ頭の中で鳴り止まないイ短調の曲は、バッハのインベンション13番ではないことに気づいた。その曲がサンプリングされている山口百恵『プレイバックPart1』がなぜか枕元で流れていた。

《続きを聞きたい?私と彼のその後ね あれから電話も手紙も来なくなったわ 馬鹿だわ私今も待ち続けているの あれは真夏の出来事でした あの時、はしゃぎすぎて 大人の女の素振りをしただけよ》

 普段はクラシックしか聴かない母が生前、唯一聴いていた歌謡曲だった。有名な『プレイバックPart2』の方ではなく。おそらくPart1の方は前奏にインベンション13番が使われているから、母は好んだのだろう。1978年に発売されたアルバムの中に収録されている曲だから、1979年生まれの私は母のおなかの中でもその曲を聴いていたかもしれない。

 私の耳に届いていたそれはラジコが音源だと気づいた。アイフォンで操作した記憶はないのに、なぜかその朝はよく聴いているラジオの音楽番組が勝手にスマホから流れていた。朝っぱらから刺激的なフレーズの『プレイバックPart1』を選曲するなんて、なかなか攻めてるなと感心していると、次の曲に切り替わった。

《ママ譲りの赤毛を 2つに束ねて みつあみ揺れてた なぜだったのだろうと 今も想うけれど まだわからないよ》

この曲…何て曲だっけ?昔、わりと好きだった曲。『強く儚い者たち』だっけ?

「…サラさんからいただいた二曲のリクエスト、山口百恵『プレイバックPart1』とCocco『Raining』をお送りしました。続いての曲は…」

あぁ、そうだ。『Raining』だった。髪の毛がなくなったら腕を切るっていうちょっと怖い歌。でも隣り合わせの生と死が感じられるから好き。私にクラシックばかり聴かせようとする母に抗うように、J-ポップやJ-ロックを聴き始めた思春期に私が興味を持った曲のひとつだった。それにしても「サラさん」ってリクエストした人…ママと同じ名前だ。一人のリスナーから届いたリクエストを二曲もかけるなんて気前がいいな。

《何かが起こりそうな夜は 祈りをささげて 目を閉じるよ こんな月のとける夜に 愛され生まれてきたのとママは言った》

次に聴こえてきた曲は爽やかな朝なのに、しっとり夜っぽい歌。

《お願い遠くへ行かないでと なぜママは涙を流すの》

懐かしい…これもその当時、よく聴いた好きな歌だった。

「Rumania montevideo『Still for your love』に続きまして、二曲続けてお送りします。」

《口づけを かわした日は ママの顔さえも見れなかった》

《ママは此処の女王様 生き写しの様なあたし》

「レベッカ『フレンズ』、椎名林檎『歌舞伎町の女王』をお送りしました。最後にまた二曲続けてお聞きください。」

《ママのつくったプディングはバニラの匂いがした》

《あのひとの ママに会うために 今ひとり 列車に乗ったの…明日の朝 ママから電話でしかってもらうわ My Darling!》

「JUDY&MARY『ドキドキ』、荒井由実『ルージュの伝言』をお送りしました。それでは今日も素敵な一日をお過ごしください。」

…ラジオパーソナリティ―の趣味なんだろうけど、母の日が近いわけでもないのに、ほとんど「ママ」縛り?夢の中の母の声を忘れたくて聴いていたのに返って、思い出しちゃうような曲ばかりだった。ママは私に何を告げたかったんだろう…。

 締め切りが迫っている記事がいくつかあるというのに最近は起きても、集中してタブレットと向き合う気力はなかった。長時間は座っていられなくて、すぐに横になりたくなる。眠気というか倦怠感が抜けないというか…。

 田中さんとの件で誤嚥性肺炎を発症してしまったせいで微熱がおさまらず、何もやる気が出ないだけと始めのうちは自分にしては珍しい症状を気にしていなかった。けれど気のせいか、息苦しさを感じることも増えていた。あれからもう二週間経つというのに、私の呼吸器官に入り込んだ田中さんのルサンチマンの残骸が、まだ私の体内で悪さしているのだろうか。たしか精子の寿命は七十二時間と聞いたことがあるから、もうとっくに死んで、私の体外から排出されているはずなのに。自分の痰ではなく、初めて受け入れた他者の体液に免疫力のない私のひ弱な身体はまだ悲鳴を上げているのだろうか。

 微熱や息苦しさだけではない。おまけに妙に乳首が痛くて、生理前のように小さな乳房は張っている気がした。細く薄く曲がっている私の身体の中で、胸だけがはち切れそうだった。おそらく異性と初めて体液を交える接触をしたから、ホルモンバランスが乱れているのだろう。あんなことくらいで身体の状態が変わってしまうなんて、私はやっぱり初心な女だと自嘲していた。

 十九歳でようやく初潮を迎えた私はそれ以来、四十歳過ぎてからも今までずっと規則正しい生理周期を辿っていた。重度身体障害者だというのに、生殖能力だけは健常らしかった。体調チェックも兼ねて、基礎体温を毎朝計測していた。低温期が二週間続いた後、二週間の高温期が終わると間もなくちゃんと生理が来るはずだった。それなのに今回は高温期が三週間も続いていた。そもそも誤嚥性肺炎で高熱が出てしまったから今回は、低温期はなかったかもしれない。体調が優れなかったのだから、少しくらい高温期が長引いても気に病むことはないとしばらくは思っていた。けれど来るべきはずの生理が来なくて、何か卵巣や子宮の病気に罹ってしまったのではないかと不安を覚え始めた頃、母が生き返る夢を見た。

 生き返った母のすぐ側で、私は産道から菊の花を産み落としていた。菊の花なんてちょっと縁起が悪いと思った。気味の悪い感覚がリアルに残り、うなされて早朝に目覚めた。無言で私をみつめる母は翳る瞳で何かを訴えていた。やっぱり、何かおかしい…。私の身体で何かが起こっていると悟った。病気が悪化してしまったのだろうか。でも「ミオチュブラー・ミオパチー」は難病だけど進行性の病気じゃないから、こんな急激な身体の変化が起きるはずがないんだけど。何か新たな病気を発症してしまったと考えるのが正しかった。まさか…田中さん、実は性病を患っていて、精液を介して移ってしまったとか?でも発疹とかは今のところないし、梅毒とかそんな感じの症状ではない。本人に確認したいと思っても、当の本人は私が住むグループホーム「イングルサイド」をやめてしまったし、もしもまだ私の元でヘルパーを続けていたとしても「性病もってませんか?」なんてまさか聞けるはずもなかった。私たちはそんな深い間柄ではないのだから。

 性病以外に考えられるとすれば…妊娠しかなかった。むしろ二週間以上の高温、眠気、倦怠感、胸の張り、息苦しさ、悪夢など諸々の症状から、性病より妊娠を疑うのが的確だった。けれど、妊娠に至る行為、つまり「性交」を経験していない私はどんなに妊娠初期症状が当てはまったとしても、妊娠はあり得なかった。私が田中さんにした「フェラチオ」で妊娠するなんて聞いたことがなし、あり得ない。あり得るとすれば、想像妊娠というやつだろうか。健常者のように普通に妊娠して普通に中絶したい願望を抱いているから、想像妊娠してしまったのかもしれない。たかがフェラによる口内射精を経験したくらいで。でも処女からすればフェラも十分刺激的な初体験だった。障害者である前に私は雄の遺伝子を欲する雌という生き物だった。

 「釈華ちゃん、これから買い物に行くんだけど、何か買って来てほしいものある?」

田中さんの代わりに新しく入ってくれたヘルパーの小湊茉莉亜(こみなとまりあ)さんが私に尋ねた。彼女は私と同い年のせいか、一番親しいヘルパーの山下さんより気さくで、私のことをすぐに下の名前で呼んだ。しかもちゃん付けで。会ってすぐに距離をつめてくるなれなれしい人は得意じゃない方だけど、なぜか彼女に関しては嫌じゃなかった。「釈華ちゃん」と呼ばれる度に母に呼ばれている感覚が蘇るせいかもしれない。あぁ、だから母の夢をよく見るようになったのかな。

 私も彼女のことは下の名前で呼ぶようになっていた。さすがに茉莉亜ちゃんとは呼べなくて、さん付けだけど。彼女と比べたら、田中さんはヘルパーと利用者の距離をわきまえている人だったな。あれ、どうしてここで田中さんのことなんて思い出してしまったんだろう。まぁ、いいか。

『ありがとう、茉莉亜さん。それじゃあ…グレープフルーツジュースをお願いします。』

「グレープフルーツジュース?珍しいわね。」

『はい、たまには飲みたいなと思って…。それからグレープフルーツのゼリーも。』

 そう入力したアイフォンを彼女に見せた。別に想像妊娠を自覚したせいではなく、本当に身体がグレープフルーツを欲していたから。

「了解。多めにグレープフルーツジュースやゼリーを買っておくわね。」

『よろしくお願いします。あとそれから…やっぱりいい。』

 私はもうひとつ、彼女に買ってきてもらおうとしたものがあった。それは妊娠検査薬。たしか想像妊娠すると稀に陽性反応が出ることがあるとネット記事で読んだことがあるから、一生に一度くらい妊娠検査薬というものを試してみたかったのだ。けれどさすがに心配されると思い、それを頼むことはやめた。

「えっ?何?他に何か必要なものがあれば遠慮なく言ってね。」

『今日はグレープフルーツだけで大丈夫。』

「そう、分かったわ。じゃあすぐに買ってくるわね。」

 彼女を部屋から見送った後、私はすぐにアマゾンで妊娠検査薬を注文した。プライム会員だから翌日にはすぐにそれが届いた。

 昨日、茉莉亜さんが大量に買ってきてくれたグレープフルーツジュースを飲んだ後、こっそり検査薬をハンカチに包んで、トイレに向かった。

 一度は試してみたかった憧れの妊娠検査薬。陽性反応が出ることはないと分かっているのにやけにスリルがあり、少しドキドキしながらキットに尿をかけた。キットのスティックに尿がリトマス紙のようにじわじわ浸透すると瞬時に小窓に青い線が現れた。はっきりくっきりと。

「えっ…?嘘でしょ…?」

喉に負担を掛けないためになるべく発声を控えているというのに、思わず声が出てしまった。想像妊娠で陽性反応が出てしまったから。

 トイレに向かうまではちょっとスリルのある秘密のイベントに参加するようにワクワクしていたのに、トイレから部屋に戻るまでの足取りは重かった。電動車椅子がいつもよりずっしり重く感じた。

 部屋に戻り、照明を明るくして改めて検査薬を見返した。やっぱり青い線は消えていなかった。信じられない事実をとりあえず残しておこうとアイフォンで撮影した。そしてそれは他者に見られてはまずいものなので、厳重に元の箱にしまい、さらに紙袋に包んで鍵のかかる引き出しに奥にしまった。

 想像妊娠で反応が出る人が稀にいると知ってはいたけれど、まさか自分がそうなるなんて…。でも想像妊娠じゃなくてもしも本当の妊娠だとしたら…?誰かにレイプされた覚えはないけれど、寝ている間に宇宙人にさらわれて、UFOの中で受精卵を私の子宮内に移植されていたら、処女受胎も可能かもしれない。宇宙人はありえないとしても、現代の医療技術では体外受精によって、妊娠は可能だ。性交しなくても。でもそれをされた覚えはもちろんなかった。あり得なかった。処女の私が本当に妊娠するなんて。

 でも…何かの間違いで妊娠しているとすれば産婦人科を早く受診する必要があった。何しろ病気で曲がった私の身体では胎児は上手く育つはずはないし、子宮外妊娠の可能性もあるし、その場合は一刻も早く処置しなければ命に関わることも本で読んで知っていたから。妊娠は勘違いだとしても、一向に生理が来ないのだから、やっぱりどこかおかしいし、産婦人科で診てもらう必要はあるだろう。想像妊娠や処女受胎の妄想を払拭するために、病院に行かなければと焦り出した。

 『茉莉亜さん、すみません。明日、病院に付き添ってもらえませんか?さっきネットで予約はしたので。』

「病院?どこか具合悪いの?」

『ちょっと産婦人科に行きたくて…。生理不順みたいで。更年期の始まりかも。』

 元助産師の経歴をもつ彼女にはこの手の話はしやすかったけれど、まさか妊娠反応が出て困っているなんて相談できなかった。

「そうなんだ。生理不順は侮れないものね。プレ更年期か…。私は数年前から更年期みたいなものだから、何でも相談してね。」

 茉莉亜さんが運転するグループホーム専用福祉車両に乗って、バリアフリーの新しい産婦人科医院へ翌日、向かった。

 「診察室に付き添わなくて大丈夫?」

「うん、大丈夫。」

 茉莉亜さんに聞かれてはまずい話をこれからしようとしているのだから、私は彼女を待合室に置いて、緊張しながらひとりでゆっくり車椅子で診察室に入った。

「問診票によると、妊娠検査薬で陽性反応が出たと…。」

年配のベテランそうな男性医師は問診票を見ながら呟いた。

「まずは内診したいんですが、検査台の上に乗れますか?」

『看護師さんに手伝っていただけたら、乗れます。』

アイフォンに入力した言葉を医師に見せた。

「分かりました。それではこちらへ。ゆっくりでいいですからね。」

 私は婦人科の検査台の上になんて乗ったことはなかった。一生縁のないものだと思っていた。開脚するようにできているあの婦人科特有の検査台に座る日がまさか来るなんて。最初はただの椅子と変わらないから車椅子の要領で座れたけれど、徐々に検査台が上がり、背中が仰け反る体勢になると少しつらかった。何しろ私の背中はS字に曲がっているのだから。それは子どもの頃に一度だけ経験したテーマパークのアトラクションに乗った時の体勢に近い気がした。身体の弱い私を心配した母はそのアトラクションに乗ることを反対したけれど、私はその時を逃せばもう二度と経験できない気がして、母より私に甘かった父に頼んで一緒に乗ってもらった。一度でいいから、そのアトラクションをどうしても体験してみたかったのだ。そんな幼い頃のことを思い出しつつ、看護師さんに介助してもらいながら、内診に挑んだ。私は幼少期の記憶を辿って、気を紛らわそうとしていたのかもしれない。

「脚の力を抜いてくださいね。超音波で子宮内を診ますから。」

陰茎どころか膣にタンポンさえ入れたことのない私は、超音波の機器が入ると痛みで身体がこわばってしまった。

「力入れないで、楽にしていてください。」

処女なんだから、何か突っ込まれた状態でリラックスなんてできない。早く終わってほしいと思っていた矢先、

「ご懐妊おめでとうございます、井沢さん。赤ちゃんが入っている袋の胎嚢が子宮内に確認できましたよ。赤ちゃんの心拍も確認できましたよ。見えますか?お母さんの心拍より赤ちゃんの心拍の方が速いんですよ。」

医師は患者が見やすい位置に天井から吊り下げられたモニターに私の胎内を映すと、私が妊娠していることを説明した。

 「何かの間違いではないですか?」と尋ねたかったけれど、驚いて声が上手く出せなかった。何より私の赤ちゃんだという胎児の心拍が私の目に飛び込んできて信じるしかなくなった。ピクピク動き続けるそれはただの点でしかなく、とても赤ちゃんには見えなかったけれど、なぜかその命の瞬きが急に愛しく思えた。母性が湧き出した瞬間だった。妊娠が確定し、不安は強まったはずなのに、小刻みに必死に動き続ける心拍に私は感動を覚えてしまった。

 モニターには私の胎内が白黒で映し出されているだけなのに、子の心拍はキラキラ輝いて見えた。飽きずにずっと見ていられる気がした。自分の心拍なんて動こうが止まろうが少しも興味ないけど、私にだけ眩く見える子の命の拍動だけは途切れることなく、永遠に続いてほしいと本気で願ってしまった。あんなに胎児殺しを切望していたというのに。

「六週目で、まだ二ミリくらいですが、今のところ順調ですよ。」

 医師は何枚かエコー写真を撮影すると、私は自由を奪われた実験台のような検査台から解放された。無理な体勢を強いられたせいか、妊娠という事実を突きつけられたせいか内診が終わった途端、痰が絡んで咳き込んでしまった。痰を吸引した後、改めて診察室で医師から説明を受けた。

 「喉、大丈夫ですか?井沢さんはご病気のようですが、産みたいというなら私は大学病院に紹介状を書きます。すぐに入院して経過観察する必要がありますから。もしも…産めないというなら、処置は一日でも早い方がいいです。その場合も大学病院になりますが。」

『はい、もう大丈夫です。先生、実は私…性交した覚えはないんですが、本当に妊娠しているんですか?いずれにしても、かかりつけ医は大学病院なので、そこに紹介状をお願いします。』

想像妊娠なんて主治医には知られたくなくて、あえてかかりつけの病院に行くことはためらい、知らない病院へ来てみたけれど、私のひしゃげた身体で起きる現象はすべて、大学病院に委ねられてしまうことに気づいた。

「大学病院にかかりつけ医がいるなら安心です。たしかに井沢さんは処女膜が残っていましたが、妊娠しているのは事実ですから、経験がないというのは医学的に信じられません。どこかで体外受精されたわけでもないんですか?」

『私はこの身体です。妊娠に憧れはありましたが、性交してくれるような相手はいませんし、体外受精なんて手術もしていません。』

「妊娠に憧れはあったということは想像妊娠もあり得るかもしれません。しかし井沢さんの子宮には紛れもなくはっきり命が宿っているんです。想像でも何でもなく事実として。だからお相手とよく相談してください。井沢さんと赤ちゃんの二つの命に関わる大事なことですからね。」

医師はあくまで私が誰かと性交した上で妊娠したのだと思い込んでいるようだった。

『先生…もしも私が産みたいと思ったところで、私の身体は出産に耐えられるんでしょうか?普通はこの身体では中絶するしかないですよね。』

「私は産婦人科が専門で、あなたの病気の主治医ではないので、断言はできませんが、21週6日目まで井沢さんが胎内で赤ちゃんを育てることができたら、22週に入り次第すぐ帝王切開で出産することは可能かもしれません。あなたの身体に負担をかけないためには早いうちに出産するのがいいですが、しかし赤ちゃんのためにはできれば30週過ぎてからの出産が良いです。産む意志があればの話ですが。」

私は自分に僅かでも産める可能性があることを考えたことがなかった。だから中絶前提の妊娠を望んでいたのだ。もしも産めるというなら、何も中絶ばかり考えることはないのかもしれない。

『20週とかもう少し早く産むことはできないのでしょうか?自分の身体のためというよりは、自分の命がもたないと赤ちゃんの命も助けられないので、少しでも早く生まれさせたいのですが。』

「なぜ21週6日を過ぎてからでないとダメかというと、順調に成長している場合、胎内から出て生きられる可能性が高いのが22週以降だからなんです。22週以降に生まれた子は命を助ける義務があります。しかし22週前に生まれてしまうと命を救う義務はないのです。むしろ見捨てなければならない場合が多いです。蘇生の対象にはならないので。逆に言うと、もしも中絶するなら20週6日までということになります。その一日の差で赤ちゃんの命が救えるかどうかが決まることだけは覚えておいてください。とにかくパートナーの方ともよく話し合って。」

医師は私にエコー写真を手渡した。そして最後にやさしく諭すように言った。

「個人的には…障害者だから産めないということはないと思います。産みたい意志がある女性には私は産ませてあげたいです。もちろん井沢さんのような病気の場合、健康な妊婦よりも命の危険が伴いますが、でも健常者だとしても出産はみんな命懸けなんです。安産なんて言葉はありますが、生まれるまでは赤ちゃんもお母さんも程度の差はあれ、常に死と隣り合わせなんです。怖がらせたいわけではなく、出産は誰しも命を懸けて挑むものなんです。そして人生観が変わるものでもあります。出産や中絶というものは。酷な話かもしれませんが、すでに妊娠している井沢さんは必ずどちらかを選ばなければなりません。」

 私は…性交した記憶はないけど、妊娠してしまった。モニター越しに私の胎内で動く赤ちゃんの心拍を見せられたし、胎嚢が写ったエコー写真も渡されたから。どうやら妊娠という事実を受け入れるしかなかった。受け入れると同時に、究極の二択を早く決めなければならなくなった。妊娠に憧れていた頃は、重度障害者の自分は中絶するしかないと決めつけていたけれど、もしも産める可能性があるなら、産みたい気もする。産んで我が子に会ってみたい。小さな手に触れてみたい。抱っこしてみたい。この身体で育児はできないかもしれないけど、同じ世界で共に生き続けたい…。そんな希望が沸々と込み上げてきた。不安や絶望の方が大きいというのに、夢みたいな僅かな希望も過り始めていた。けれど母性に紐づけされた産みたいなんて欲求は、障害者の私にとっては妊娠・中絶願望より無謀で厄介で悍ましい欲望だと言い聞かせようとする冷静な自分もいた。

 「大丈夫だった?お薬とか処方された?」

『大丈夫でした。ホルモン注射打ってもらったので、薬は処方されてません。』

まさか妊娠していたなんて茉莉亜さんに打ち明けられるはずもなく、私は生理不順の処置をしてもらったと嘘をついた。

「そっか、ホルモン注射で済んで良かったね。薬局寄らなくていいなら、このまま帰ろうか?」

私は笑顔を取り繕って頷いた。

 病院から出た瞬間、太陽の上の方に虹が見えた。

「変わった虹…。きれい。」

美しい七色の光に思わず溜め息が出た。

「たぶんあれはタンジェントアークっていう光環現象よ。虹なら太陽と反対の方角に見えるはずだから。環天頂アークとかラテラルアークとか、ハロとか幻日とか、太陽の回りに現れる虹色っていろんな種類があるの。めったに見られないけどね。」

「虹じゃないんだ。茉莉亜さん、詳しいですね。」

「空が好きで、よく見てるから。昔ね、アークやハロが全部見えたすごい空を見たことがあったの。あんなのもう二度と見られないと思う。あの空を釈華ちゃんにも見せたかったな。」

 タンジェントアーク…。初めて見た気がするけど、もしかしたら今までは見過していただけかもしれない。いつかどこかで出会っていた虹色だったかもしれない。屋内で過ごすことの多い私は、いつもは部屋の窓から射し込む光を感じる程度で、どちらかと言えば光より影に惹かれた。窓から漏れる朝日や夕日の光を頼りに、白い壁に手で影を作って、ひとりで影遊びすることもあったから。私にとって影は唯一の友だちだった。電源をつけていない真っ黒なテレビの画面に映し出される自分の顔の細い影も見たくなくてもよく見ている。だから影の方が、親近感がある。けれどよく考えてみれば、影ができるということは必ず何らかの光源があるわけで、光がなければ影は存在できない。光の恩恵で影は生まれられるのだと気づいた。

 子宮に命が宿っていることを告げられたばかりで、どうしていいか分からないけど、この子にもこの美しい虹色の光を見せてあげたいと思った。私の病気が遺伝したら、生きるのに苦労することは私が一番よく知っている。生きづらさを抱えやすい障害者を再生産して良いことなんてないと障害者の私でさえ、障害者を侮辱するようなことを考えてしまうけど、生まれたらこんなきれいな光景を見られるかもしれない。誰かと出会えて、新たな命の瞬きも感じられるかもしれない。地を這い、もがき、足掻くような人生だとしても、生きてさえいれば、たまには感動的な瞬間に必ず出会える。私があなたの命と出会えたように。私はこの世界で不完全な自分の身体に宿ってくれた命と会いたいと願った。

《急ぎ足の明日へと抵抗するように 駆け回っていても不思議なくらい…この胸は君を描くよ 見上げれば輝きは色褪せず溢れていた どんな時も照らしてる あの太陽のようになれたなら》 L'Arc-en-Ciel『瞳の住人』

 病院からグループホームへ戻ると自室にこもり、さっき眩く見えたのは錯覚で、影のようにしか見えない暗いエコー写真をみつめながらひとりで考えた。処女受胎なんて聖書の中でしか起きないようなことがあり得るのだと自分の胎内で起きている事実をまず受け止めた。人間になるために妊娠を望んでいた重度障害者の私を憐れんだ神さまが気を利かせて、受胎させたのかもしれない。私の願いを叶えてくれたんだと思う。または中絶という罪を犯そうとしている私に対する罰かもしれない。本当に妊娠したらどうなるかという試練や天罰が神さまから下された気もした。

 富裕層だった亡き両親のおかげで私は幸い、お金だけはある。お産が起因で私が死んでしまったとしても、両親が遺してくれた財産をこの子が相続すれば、母親の私がいなくても生きていけるだろう。そもそも死なずに出産できたとしても、私は母親としての役目はきっと果たせない。紙の本を持つのでさえ一苦労の私が3キロの赤ちゃんを抱っこするなんて無理だろう。入浴も介助してもらっている私は、我が子を沐浴させることだってできない。ミルクをあげたり、オムツを変えることも何もできないだろう。すべてお金の力を借りて、シッターに任せるしかないと分かっていて、産みたいと願うのは無責任の気もする。育てられないのに産みたいなんてエゴでしかない。けれど、経済面だけはクリアしているなら、出産を望むくらい好きにさせてほしい。障害者だからと言ってそもそも妊娠を躊躇したり、中絶ばかり考えるより、授かった命を救うため、この世に生み出そうしてもいいのではないか。一刻も早く宿った命を始末しようとするよりはマシではないか。財力がそこそこあるからこそ、私は中絶をためらい、葛藤し始めた。

 芽生えた母性も中絶を食い止めようとした。まだ点のような心拍しか見たことがないのに、我が子がかわいい、愛しいと思えた。一度も会ったことがないのに、無条件に愛せた。生まれて初めて心から愛せた相手かもしれない。例えば同じ病気、私よりもっと重い障害を抱えて生まれたとしても、好きでいる自信があった。どんな姿で生まれたとしても、その命が続いてほしいと願う親心が私の中にこの子の命と共に宿ってしまったらしい。母性は私が産み出したものではなく、おなかの中の子が母性の欠片もなかった私にプレゼントしてくれた宝物だった。母心は温かさや優しさだけでなく、子の命を守りたいという強さや執念も兼ね備えていたから、妊娠前は中絶ばかり考えていた未熟な私を悩ませる根源になった。まさか産みたくなるなんて想定外だった。うら若いお嬢さんに見られがちな私は本当に何も知らない子どもだった。

 子どものような私にもたらされた母性は痰より厄介者だとも思った。命を生み出すまで、死ぬことを許してくれそうにないから。痰は私の息の根を止めてくれる可能性もあるけど、母性は命をつなぐまで貧弱な私を生かそうとしている気がした。

 頻繁に母が夢枕に立つようになったのは、私に受胎を告げるためだったのだろう。夢の中で母は「〇〇するのよ」と言っていた。生前、「水分を多く摂るのよ」とか「転ばないようにね」と口うるさく魔女のように呪文を唱え、危なっかしい私を支えてくれていた母のことだから、「〇〇するのよ」はきっと「中絶するのよ」だと思う。「産むのよ」と言ってくれるようなタフな母ではなかった。愛する娘の私が少しでも長生きできるよう、無難な人生を歩んでくれることを母が願っていることは分かっていた。私が我が子を愛するのと同じように、母は私に苦労や命の危機が迫ることは望まないだろう。莫大な資産を残してくれたのも、私がひとりになっても困らず生きていけるための愛情だと分かっている。身ごもったことでより親心が分かるようになったから、母に申し訳ないとも思った。

 一方で私の胎内で命を刻む新たな命は母や父の血も受け継いでいる。この子を産めば、会いたくてももう会えない母や父と再会できるかもしれない。どこかで両親の癖がきっと遺伝しているはずだから。もっと遡れば祖父母や会ったこともないご先祖さまたちの血も流れているわけで、皆の血が流れているこの命は頼もしい。両親が亡くなり、ひとりぼっちになってしまった気がしていたけど、この子を産めたら私はきっとひとりではなくなる。大人になるまで一緒に同じ時を生きていられる。それってすごく心強いし、障害者の私が生き続けたい理由にもなる。

 ダ・ヴィンチが描いた『モナ・リザ』は誰なのか、諸説あるらしいが、喪服を着た聖母マリア説が根強い。マリアは処女受胎の象徴的存在でもある。マリア様になりたいなんて考えたこともないけど、同じような境遇に陥った今、私はキリスト(神)を生み出そうとしているんだろうか。だとすれば、私はモナ・リザになろうとしているのだろうか…。

 たぶん…相手は田中さんのはずで、田中さんの方の血も流れている。私より十歳年下で、身長も私より十センチ低い彼との子。自分のことを弱者と思い込んでいる彼。私も弱者だから弱者同士で生み出した命。妊娠前は性格が好きになれなくて、むしろ紙の本と同じように私を見下す態度の彼に嫌悪感を抱いていたから、彼との子なら呵責なく堕胎できると信じていた。けれどいざ妊娠してみると、嫌いな田中さんどころか、例えば相手が見ず知らずのレイプ犯だとしても、卵子だけは間違いなく自分の卵子だから、授かってしまえばその子を心から憎み、嫌いになることはできないと気づいた。子の父親が誰であろうと、命の種が誰のものであろうと、自分の胎内に宿った命は愛しく思えてしまうものだと、ふいに与えられた母性をコントロールできない私は、憎い田中さんとの子であるとしても愛してしまっていた。もはや私はせむしの怪物ではなく、ただの母性の怪物だった。

 田中さんのことは好きになれなかったから、イングルサイドをやめて以来、会いたいなんて考えたこともなかったけれど、子の父親だとすれば会いたいという気持ちが芽生えた。会って話がしてみたいと思った。フェラしただけで妊娠してしまったこの理解し難い現状を彼なら受け止めてくれるだろうか。処女受胎なんてそんなのどうせまた紗花名義で考えたネタだろうって嘲笑うだろうけど。でもエコー写真でも見せれば、まぐれで真に受けて、一緒に真剣に悩んでくれるかもしれない。何しろ一時は、お金に目がくらんで胎児殺しの共犯者になろうとしてくれた男だから。好きになれないとしても、子の父親かもしれないと思うと、嫌いにもなれなかった。私の母性は田中さんとの再会を切望していた。産むべきか、堕胎すべきか共に悩んでくれる相手がほしかった。

 田中さんはきっと自分の精子で私を殺しかけたことに罪悪感を抱いているだろうから、中絶同意書にサインするとか胎児殺しのほう助はしたくないだろう。もう少し精神的にタフな男で、罪の意識なんてなければここをやめてはいないだろうし。田中さんは弱者というよりただの小心者だった。だからと言って、逆に産む方にも協力してはくれないだろう。小心者の彼はきっと重みのある命という存在と関わりたくなくなったのだろうから。彼は命に責任を持ちたくないし、殺すも生かすも自分は関係ない、井沢さんの信憑性のない妄想には付き合えないと逃げるに決まっている。けれどまたお金を積んで、あなたは働かなくていいし、育児も協力しなくていいから、ただ父親として認知だけしてほしいとお願いしたらどうだろうか。父親という名義だけ子に与えてくれたら、私は彼を養うことくらい苦にはならない。父親の役目どころか母親の役割さえ果たせない母親の元に生まれる子には父親もいた方がいいと思うから。マンション経営で定期的に入るお金や手つかずの現金資産等をあてにすれば、子どもと田中さんと、子のシッターと私のヘルパーを養うくらいはできる。私は食べ物にこだわりはないし、ふりかけさえあればご飯は食べられる。慎ましく暮らす自信はあるから問題ないのではないか。何ならNISAとか投資も始めて稼ぐことだってできる。子のためなら何でもできると力が湧いていた。

 それにしてもどうしてさっきから田中さんのことばかり考えてしまうんだろう。おなかの子の父親の可能性が高いからだろうか。私を蔑み、中途半端に私をその気にさせておいて逃げた卑怯な男だというのに。私はいつの間に田中推しになってしまったんだろう。彼のことばかり考えても何の解決もしないし、キリがないからもうやめよう。

 今日は疲れたな…。意識していないのに、おなかをさすりながら、「おやすみ」とエコー写真に話しかけてしまうほど母性に支配されている自分が気味悪く、恐ろしくなった。すでに自分が自分ではなくなっている気がした。別人のように変わってしまった自分の一挙一動に怯えつつも、相変わらず眠気はとれないので、ベッドに入るとぐっすり熟睡できた。

 間もなくまた母が夢に現れた。イ短調の曲をまといながら。

「釈華ちゃん、ちゃんと中絶するのよ。その子ならママがこっちで面倒みるから安心して。」

今夜ははっきり聞き取れてしまった。ほらね、やっぱりママは「中絶するのよ」と言っていた。毎日毎日、私が妊娠に気づく前から、私に忠告し続けていたんだ。

「こっちで面倒みるなんて簡単に言わないでよ。私は…自分の心臓を止められるより、この子の心拍が止まってしまうことの方がつらい。」

夢の中で私ははっきりそう母に言い放った。自分の口からそんな言葉が出るなんて驚いたくらいだった。

「産むとか、一緒に生きたいなんて考えてはダメ。釈華ちゃんがつらい思いをして、苦労するだけなんだから。そもそもあなたの身体で産めるわけがないでしょう。一日も早く、中絶手術を受けて始末しなさい。流産するのを待つのもダメよ。流産してしまう可能性が高いとしても、そんなのいつになるか分からないんだから。育ってしまってからでは遅いの。」

母は次々鋭い刃のように私の心にダメージを与える言葉を発した。「始末」なんてひどい…。せっかく授かった命なのに。曲がりなりにもママの孫なのに。

「清純な釈華ちゃんがこんなことになるなんて、ママはまだ信じられないのよ。ママに隠れて男の人と関わっていたなんてショックなの。私たちがいなくなってもあなたを守り続けるためにあのグループホームを作ったのに、そこでこんなことになってしまうなんてね…。」

ショックで何も言い返せずにいた私に母はため息を吐きながらそう呟いた。

「ママ…私、ママが想像するようなことは何もしてないよ。未遂だったから。」

やっとの思いで反論すると母はまた語気を強めた。

「何もってことはないでしょう。未遂でもないわ。私は娘を汚され傷つけた田中くんを許せない。」

「えっ…ママ…田中さんとのことを知ってるの?おなかの子の父親はやっぱり田中さんなの?」

Aマイナーの表情を浮かべていたママから返答を聞く前に夢は途切れてしまった。

 やっぱり、父親は田中さんなんだろう。母が田中さんを憎むということはそういうことなんだろう。娘の私を愛するあまり、母は赤ちゃんの味方になってくれそうにない。そもそも生きていないから、協力してもらえないのは分かっているけど。私は我が子を守るために味方がほしいのだと気づいた。二人で生きるなら、なるべく多くの味方がほしい。私は自分のことだって何もひとりではできない未熟者だから。

 イングルサイドには広い庭があった。普段は部屋の大きな窓から見下ろすだけで、あまり行くことはないんだけれど、目覚めるとなぜかそこに足が赴いた。もちろんバリアフリーで車椅子が通りやすい広めの遊歩道もある。外に出ると朝の淀みのない空気が心地良く感じた。桜、楓、白樺、ライラック、金木犀、銀木犀、沈丁花、バラ、猫柳、ハナミズキ、百日紅、モミの木、スミレ、スイセン、ルピナスなど…。四季折々に花を咲かせる植物たちがたくさん植えられている庭。特に樹木の種類は多い方だと思う。アン・ブックスが愛読書の娘の私のために、両親がグリーンゲイブルズを再現したような美しい庭もグループホーム敷地内に完備してくれたのだった。作中によく登場するリンゴの木だけは忘れてしまったみたいだけど。わざわざ緑色に塗られた屋根の東屋もある。障害者や高齢者にやさしい座り心地の良いベンチはもちろん白色。春とか気候の良い時期はたまにここでお茶会が開かれたりする。今の時期は猫柳しか花をつけていなくて、まだ冬枯れのちょっと寂しい庭に見えた。素敵な香りの花がたくさん咲く春の庭をいつかおなかの子にも見せてあげたい…なんてまたそんな戯れ事を考えていると、葉の落ちた木々の隙間から、見覚えのある人影が見えた。

「田中…さん?」

私に気づいた彼は足早に逃げようとした。とっさに私は

「順さん、待って。話があるの。」

と自分が出せるありったけの声量で彼を引き止めようとした。「順さん」なんて言われたことのない呼び方をされた彼は私の方を見ると怪訝な顔つきをしていた。私、ちょっとミサトさんっぽい口調だったかもしれない。

「珍しいですね。こんな時間に井沢さんが庭にいるなんて。今の呼び止め方…何なんですか?」

『たまには朝の新鮮な空気を吸いたいと思って。順さんと呼ばなければ、きっと田中さんは逃げたでしょう?お時間あるなら、ちょっと庭へ来てください。』

常緑樹の茂みの隙間からアイフォンに入力した文字を彼に見せた。

「たまたま通り掛かっただけなんだけどな…仕方ないですね。」

彼は渋々、私がいる庭の方へ来てくれた。そして二人で白いベンチに腰かけた。私はわざわざ車椅子からベンチに移動させてもらって。本当は車椅子のままの方が楽ではあったけれど、ひとつのベンチに異性と二人で腰かけて会話するのがちょっとした夢だったから。

「すみません、ありがとうございます。」

「別にいいですよ、これくらい。それより話って何ですか?まさかまだ諦めていないわけじゃないですよね?その件なら、もう勘弁してください。」

『違います。ちゃんとさよならも言えないまま、田中さんはここから消えてしまったから、お別れを伝えたかったんです。』

違う。こんなことを話したいわけじゃないのに。なぜか緊張して上手く話が切り出せない…。

「最後に会った時、『お大事に』と言ったと思うけど。あれが別れの挨拶のつもりですよ。」

『えぇ…そうでしたね。今は…何をされているんですか?』

「ヘルパーはやめて、大きめの古本屋で働き始めましたよ。」

『古本屋ですか。せっかくヘルパーの資格があるのに。』

潔癖症で図書館の本さえ触れない私には全く縁のないお店だった。

「井沢さんみたいな強引な利用者と関わることにうんざりして…。というのは嘘で、自分が情けないと思ったし、怖くなったんですよ。今さら、生身の命と関わる仕事が。元々紙の本が好きなので、本屋も興味あったし。でもまぁ、紙の本は冊数が増えるとかなり重いから、ヘルパー並みに体力使うし、腰にも来ますよ。」

紙の本が好きなんて紙の本が苦手な私に対する当てつけのような気もした。それにしてもやっぱり彼は私が考えていた通り、小心者だった。

『軽率だった私のせいで、すみません…。本屋さんも大変そうだけど、いいですね。ところでその…処女受胎ってどう思いますか?』

単刀直入過ぎただろうか。そのパワーワードに少しぎょっとした彼だったけれど、すぐ平静に戻った。

「処女受胎?紗花の新作がそのテーマなの?おもしろいと思いますよ。最近は記事も小説も何も更新されてないから、井沢さんは書くことやめてしまったのかと思ってた。」

やっぱりネタとしか思われなかった。

『新作とかネタではなくて…その…仮にリアルでそうなったらという話です。』

「リアルで?性交なしに妊娠なんてできるわけな…あっ、でも現代なら体外受精で受精卵を子宮に戻すことができるから、あり得なくもないかもしれない。処女で妊娠するのは可能かも。まさか今度は体外受精するから、精子を提供してくれなんて言いませんよね?俺は協力できませんよ。」

『違います。その…あの…田中さんは子どもやお母さんのこと…好きですか?』

私はまた突拍子もないことを尋ねてしまった。

「今日の井沢さん…支離滅裂だな。何ですか、その謎々みたいな質問は。まだ体調優れないんですか?子どもは嫌いじゃないですよ。歳の離れた妹の面倒も見てるし。母親は…シングルマザーなんだけど、いわゆる教育ママで。俺を一流大学に入学させることに躍起になってたけど、受験に失敗してしまって…。それで俺のことは諦めたらしく、今は見放されてる。でも今度はまだ中学生の妹を良い大学に入れることに夢中になってて…。そんな母親だから、いろいろ思うところはあるけど、命をかけて産んでくれた母のことを心底嫌いにはなれない。俺たちを育てるために自分の人生を犠牲にしてるし。母のことを考えると母の期待には応えられなかったし、自分なんて生まれなきゃ良かったと思うこともある。俺が生まれて良かったかどうかはまた別次元の話だけど。」

『すみません…。たしかにまだ微熱が続いていて、体調は万全ではありません。田中さんには妹さんがいらっしゃるんですね。お子さん好きなら良かった。お母さんのこともいろいろたいへんそうですが、嫌いじゃないんですね。』

「まだ微熱が続いているんだ…すみません。あんなことしてしまって。」

『謝らないでください。元はと言えば私が田中さんに頼んだことですから。あなたに強要された行為ではなく、私が望んだ行為で死んだとしても仕方ないんです。田中さんには責任ありません。それより私…』

「あなたに頼まれてしたことであっても、しないと拒否することもできたのに、中途半端にしてしまった俺も悪いんです。井沢さんに手を出して、すみません。」

私は言いかけた言葉を入力するのをやめて、コートのポケットに忍ばせていたエコー写真を取り出した。そして彼に見せた。

「何ですか?これは。」

「エコー写真です。妊娠六週目の。」

私は自分のか細い声ではっきり言った。

「誰の写真なんですか?」

「私の赤ちゃんの写真です。」

彼はしばらく無言で呆然としたまま、エコー写真をみつめていた。

「俺じゃないですよ。まさか…あれからほんとにセラピストを呼んだんですか?」

別に問いただしてもいないのに、彼は真っ先に自分の責任ではないと否定した。

『セラピストとは会ってないし、他の男性とも接触していません。田中さんの精子を飲み込んだだけで、妊娠したんです。虚構ではなく事実として。』

「…。ありえないですよ、井沢さん。入院中、あの豪華な特別室で誰かに乱暴されたんじゃないんですか?」

当然、彼は私が突きつけた現実を信じてはくれなかった。

『今の時点では父親が誰なのか判断することはできませんが、生まれた後にDNA鑑定すれば父親が誰なのか、はっきりします。』

「生まれたらって…。まさか産むつもり?あんなに中絶するって言い張っていたのに。妊娠して中絶するのが夢だって…。」

『私の身体では妊娠はできても産めないと思い込んでいたから、中絶すると決めていました。けれど…産める可能性もあると知って…。』

「何、考えてるんですか。父親の話はさておき、出産なんて死にかけてまでやることかよ。いや、死にかけるどころか井沢さん、死にますよ。」

『身体に障害があるから、出産したら死にかけるかもしれないのではなくて、健常者も誰でも母親はみんな、死を覚悟して出産に挑むものなんです。障害があるとかないとか関係なく、死にかけなきゃできないことなんです、出産は。死ぬとしても産みたいと願ってしまうものなんです。命が子宮に宿ると。』

「井沢さん…父親が誰かも分からないような得体の知れない子を産むつもりなんだ…。相談されても何もしてはあげられませんよ。悪いけど、今日の話は聞かなかったことにするから。」

『父親の正体が分からなくても、この子の母親は間違いなく私です。私の胎内に宿っている命ですから。この子を子宮で育んで、産んであげられるのは私しかいないんです。』

「代理母なら…卵子もあなた由来のものとは限らないけど。でもまぁ授かれば、女性はみんな母親らしくなるのかもしれないな。少し前まで胎児殺しを願っていた井沢さんとまるで別人だから怖いくらい。俺は関係ないけど、産むとしても金だけは腐るほどあるあなたならたとえ死んだとしても、子どもは何とか生きられるでしょうね。そのほんの一部の一億五五〇〇万円も手つかずのままだろうし。あの時、俺なんかに渡さなくて良かったですね。」

『私はずっと自分のことをせむしの怪物と思っていました。けれど今は母性の怪物になってしまったんです。田中さんの言う通り、経済面だけはクリアしているので、出産を夢見てしまうんです。できればこの子と一緒に生きたいと。』

「無関係の俺にはあなたを止める権利はないから、好きにしてください。ただ…別に健常者と張り合うように生きる必要はないと思う。井沢さんが障害者だからこそ、書ける物語もあったでしょ?コタツ記事は誰でも書けるから別としても、俺は嫌いじゃなかったな、紗花が書く小説。何も妊娠して出産または中絶することだけが健康な女性の特権でもないし。弱者が吐き出す物語に弱者の自分は救われてた気がする。ちなみに弱者であり、俺は小心者だから。最初は冷やかし半分で暇つぶしに読んでたけど、いつの間にかあなたの文章にハマっていたし…。」

なんだ…小心者ということも自覚してたのか。紗花の数少ない熱心な読者の彼にこんな形で励まされるとは…。

『ありがとうございます。落ち着いたらまた何か書きますから。楽しみにしていてください。』

「生きていなきゃ書けないということを覚えておいてください。俺はいつか紗花の本を自分で査定して、棚に並べることがちょっとした夢なんだから。子孫を残すことだけが人間になる術じゃないし。釈華さん、お大事に。さようなら。」

「田中さん、ありがとう。そうですね、電子書籍だけじゃなくて、紙の本も検討します。さようなら、順さん。」

彼は私をベンチから車椅子に戻し、真似するように私を下の名前で呼ぶと、あの時と同じ言葉を残して、グリーンゲイブルズから去った。

 田中さんは清らかではない汚らわしい側面を持つ私の本性を知る唯一の特別な人だったと思う。好きとか嫌いとか関係なく、最後は逃げたとしても、一瞬だけ本物の私と向き合い、交わり合おうとしてくれたかけがえのない存在。アンにとってギルバートが特別になったように、私にとってのギルバートは田中さんだったかもしれない。アンがギルバートに最初に抱いた印象と同じように、最悪で憎んでいたはずなのに、いつの間にか心の隅に宿って消えてくれない存在になっていた。会って話がしたいと思っていたのは私だけではなく、おなかの子もそうだったかもしれない。この子が父親かもしれない人を引き寄せ、田中さんと私を再会させてくれたのだろう。もう二度と会うことはないとしても。何もしてもらえないことは分かっていたし、もう何も望まないけど、命が宿った事実を彼に伝えられて良かった。それさえ母親になった私のエゴかもしれないけど。

 部屋に戻ると、コートに私のものではない髪の毛が一本ついていることに気づいた。さっき私を介助してくれた時についた田中さんの髪の毛だろう。DNA鑑定に使えるかもしれない…。そんなことが過り、その髪の毛を大事に透明な小袋にしまった私はヤバイ女だとまた自分が恐ろしくなった。暴走する母性に理性はとっくに白旗をあげていた。

 その日、昼食を持って部屋に来てくれたのは茉莉亜さんだった。

「今朝、ちらっと見かけたんだけど釈華ちゃん、庭で男の人と話し込んでいたよね?もしかして彼氏?」

『ち、違います。元ここのヘルパーだった方で、今朝たまたま見かけたので、懐かしくなって話していただけで。』

「なんだ、そうだったの。ずいぶん親しそうだったから、彼氏かと思っちゃった。」

『そもそも私に彼氏なんてできるわけがなし…。』

「あら、そんなことはないわよ。今の時代、ネットで誰とでも出会えるし、異性のヘルパーや利用者さんと親しくなっても不思議じゃないわよね。それが一般的にタブーだとしても。障害者だからって恋愛禁止なんてことはないもの。逆に健常者だからってみんなが恋人いるわけでもないし。結局、人間性よね。魅力がある人は障害のあるなしに関わらず、恋愛も恋人もできるのよ、きっと。」

『そう言えば…茉莉亜さんは?彼氏さんとか旦那さんいるの?』

「二十代で結婚したんだけどね、三十九歳で別れちゃった。離婚して以来、彼氏もいないし、寂しい人生よ。でも心に大事な存在がいるから、がんばれるの。あっ、怪しい宗教とか神さまとかそういうのじゃなくてね。」

『結婚したことあるなんて、羨ましい。大事な存在って…?』

彼女は一瞬、寂し気な微笑を浮かべると、思いもよらないことを話し始めた。

「釈華ちゃんには話してもいいかな。離婚の原因は流産なの。三十九歳でようやく授かったんだけど、妊娠七週で流産してしまって…。流産手術の時、大量出血して、術後に胎盤癒着って診断されてね。子ども由来の細胞が子宮に残っちゃったの。それで内膜が肥大したり子宮の病変が悪化してどうにもならなくなって、仕方なく子宮摘出することになったの。だから今はもう子宮がないの。旦那が子どもほしがっていることは分かっていたから、私からお願いして離婚したの。やさしい彼はすぐには応じなかったけど…。私は彼の血を受け継ぐ子を宿せる女性に彼を託したくて。彼のことが好きだから。」

いつもさばさばしていて明るい彼女の口から思いがけず重い話が切り出されたものだから、少し動揺してしまった。

『そんなことがあったんだ…。茉莉亜さん、いつも元気だから全然気づかなかった。流産して子宮を摘出してるなんて…。』

「今はもう生理がなくなったことにも慣れたから。少し早い閉経が来たと思って。」

『でも…子宮を摘出して、赤ちゃんを産めない身体になったら、私だったらショックで立ち直れないと思う。』

「私ね、若い頃は助産師をしていたから、いろんな現場にいたのね。中には少しブラックな病院もあって…。妊娠中期の中絶手術に立ち会うことになって。二十一週目の赤ちゃんだったんだけど、大きかったから二十二週以上の子に見えたのよ。でも二十一週六日目までは母体保護法で堕胎が認められているから、医師は手術したんだけど…。子宮から出ても自力で生きられるくらい成長していた子だったから、もちろん産まれた直後は心臓が動いていたし、呼吸もしていたの。けど、泣き声を母親に聞かせてしまったら、ますます母性が芽生えるし、母乳も出るようになってしまうから、絶対その子の声を聞かせてはいけないと言われて、私は医師がとり上げたその子の口を塞いでいたの。生かしてはいけないから口だけじゃなくて鼻も…。産まれたばかりの小さな命を窒息させて私が葬ったの。あの小さいけどたくましくて温かかった命が忘れられない。あの子を殺してしまったから、私は我が子を望んではいけないと思っていたの。でもやさしい彼に惹かれて、結婚して、四十歳直前で授かって…。流産して子宮を摘出することになったのは天罰の気もするのよ。あの時の。」

さらに重みのある彼女の過去を知り、私はしばらく何も言葉が出なかった。

「ごめんね、こんな話聞かせてしまって。助産師は生まれる命と出会える尊い仕事だったけど、生まれることを望まれない命と出会うことも避けられない過酷な仕事だったから、そのうち耐えられなくなって。だからヘルパーの資格をとって、転職したのよ。人と関わる仕事はし続けたかったから。」

『天罰とか…そんなことはないと思う。茉莉亜さんがしなければ他の誰かがしなきゃいけなかったことで、処置として仕方なかったことなんだと。未だにその時の命の温もりを忘れずに、つらくても思い出してくれる茉莉亜さんのことをその赤ちゃんは恨んでるわけないし、むしろ覚えていてくれてありがとうって思ってるんじゃないかな。』

「ありがとう、釈華ちゃんはやさしいわね。私の心に住んでいる大事な存在はね、その時の赤ちゃんと流産してしまった自分の子なの。生かしてあげられなかったし、産んであげられなかったけど、二人とも私の心には住みついているの。それぞれの死を経験して絶望していた時、空を見上げたらね、アークをみつけたのよ。心はどん底の暗闇にいるというのに、空だけは虹色であまりにもきれいで思わず涙が出ちゃった。こんな美しい虹色をあの子たちにも見せたかったって思ったのよ。」

『亡くなった子たちを心の中で生かしてあげるって素敵だと思う。アークとかきれいな景色をみつけると見せてあげたくなる気持ちも何となく分かるよ。』

話し終えると何事もなかったかのようにいつもの明るい彼女に戻って、ベッドのシーツを変え、洗濯物のパジャマやタオルを抱えて部屋から出て行った。

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