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『アイ・アム まきもと』故人にやさしく、円滑なコミュニケーションは苦手な牧本さんが教えてくれた命の匂い。

 9月30日、夏のような暑さの快晴の昼下がり。路肩でタヌキが息絶えていた。(または息絶えようとしていた。)私の車はその側を時速60キロで駆け抜けた。一つの尊い命が尽き果てた(尽き果てようとしている)のに、見て見ぬフリをして、映画館へ向かおうとする自分になんだか少し嫌気がさした。もちろん他のドライバーも気に留めず、車を走らせている。タヌキ一匹の命が消えかけていても、世界は何事もなかったかのように動き続ける。もしもこれがタヌキではなく、人間だとしたら、とっくに警察が出動しているだろう。けれど人間には関係ない野生動物の命だから、葬られるまで置き去りにされる時間は長い。放置されているタヌキはまるでただの石ころのようだった…。

 自然界において死というものは非日常ではなく、日常茶飯事の事象であり、石ころみたいに当たり前のようにどこにでも転がっているものだ。生き物は生まれた限り、死を避けられないし、いつ死んでもおかしくはない。なのになぜか人間の死は非日常感が漂う。それはおそらく葬儀という文化があるためだろうが、人間は死を非日常の特別なものとして扱いたがる。本当は、死は生の延長にあって、命に最初から自動的に備わっているものなのに。

 とかく死を特別扱いしたがる人間は、死に恐怖心を抱く場合が多い。自分が死ぬことはもちろん、身近な存在の死は格別、悲しみに暮れる。正直に言えば、世界的な大スターが亡くなったとしても、ファンでもない限り、その死に特別な意味はもたないが、親しい家族やペットが亡くなった場合は、喪失感に襲われ、自身が生きる気力まで奪われてしまう。このように人間というものは、とくに身近な存在の死を悼む生き物なのだ。

 しかし今回観た映画の主人公・阿部サダヲ演じる、市役所福祉課おみおくり係の牧本さんは、自分とは全く関係のない、他者の死を丁寧に扱い、最後まで責任を持って弔い、その人の死とその人が辿ってきた人生と向き合い続けていた。普通そんなことは利益の発生する葬儀屋でもない限り、好んでしたがる人はいないだろう。けれど牧本さんは出費のかさむ自腹で、縁もゆかりもない孤独死してしまった故人の葬儀まで粛々と執り行っていた。(見ず知らずの人を供養するために、自分のお金を使うということは、初めて出会った人にお金をあげているようなものだろう。)そんな人は変わり者としか思えないし、現実ではあり得ないけれど、どこかに実在してほしいと願ってしまうほど、牧本さんが「死」を見つめる眼差しはやさしく、どこまでも故人に温かい人だった。
(※以下、気にならない程度の若干のネタバレ含むかもしれません。)

 空気が読めず、マイルールがたくさんあり、没頭してしまうとそれしか見えなくなり、他者とのコミュニケーションが不器用な牧本さんは、会話が成り立たない一方通行でしかコミュニケーションのとれない死者という存在と関わる方がラクということもあるのかもしれない。唯一、相手を怒らせることなく、自分の思い通り、スムースにコミュニケーションを図れるのが、故人という存在なのかもしれない。だから、牧本さんは仕事で嫌々おみおくり係をしているというわけではなく、語弊があるかもしれないが趣味または生きがいとして、孤独死してしまった市民のお見送りをしているように見えた。そんな人が実在したら、物好きだし、迷惑と思う人もいるかもしれないが、個人的には本気で実在してほしい。これからますます高齢社会が加速するし、孤独死は増える一方だから、フィクションではなく、本当にそれぞれの行政におみおくり係、おみおくり課は必要な時代になったと思う。松戸市には「すぐやる課」なるものがあるらしいが、「おみおくり課」も全国各所にあった方がいい。

 最期は孤独死してしまうかもしれない人間であっても、ずっと孤独だったわけではなく、その人生には少なからず関わった人たちが存在する。必ずその命を生み、育んでくれた親がいるはずだし、長く生きれば生きるほど関わりを持つ人は増える。出会った人たちすべてと深い関係をもてるわけではないが、ある程度浅くない関係者であれば、その人の死を知る権利はあるだろう。しかし亡くなった人が直接お知らせできるわけもないため、牧本さんのように、お節介すぎるほど故人の人生を遡り、関係者を突き止めようとする亡き人に熱意を持ってくれる変わり者が必要なのだ。まったく無関係の役所の人間に、自分の人生を勝手に探られ、丸裸にされることに抵抗をもつ人もいるかもしれないが、死んでしまえば自力で大切だった人たちと連絡をとることは難しい。死者は人生の振り返りを生者の誰かに委ねるしかないのだ。

 あまり情を入れられても困るし、かと言って、淡々と機械的にただの職務として振り返る作業をされても困る。牧本さんは独自の感性を持っていて、他者とはちょっとズレている分、情が入り過ぎるということはない。どこか機械的に見えても、どんな故人に対しても、真摯に向き合い、分け隔てなく接する姿勢は、お見送りにふさわしい人だ。牧本さんの性格を生かすために福祉課内に作られた係らしいが、彼にとってはまさに天職に見えた。何しろデスク周りがたくさんのお骨に陣取られていても、少しも気にする様子はなく、淡々とやるべき仕事をこなしている彼は異様でありながら、故人にとってはありがたい神様のような存在ではないかと思えた。

 この作品の演出に関しても、至る所に死と生のモチーフが散りばめられていた気がする。作品の特性上、お骨を持つシーンが多い中、赤ちゃんを抱くシーンも登場し、それは死と対照的に生の象徴だった。と同時に、命というものは最初も最後も両手ですっぽり納まるもので、抱き抱えられるものであるべきということを教えられた。

 全体を通して、「匂い」の描写は突出していた。ゴミ屋敷の悪臭、死臭、お線香の匂い、メンソレータムの香り、煙草の匂い、豚小屋の臭い、紅茶の香り、それから赤ちゃんの匂いなど…牧本さんが様々な匂いを嗅ぐシーンは多かった。命には匂いがつきもので、匂いこそ生きている最中も、死んだ後も命の証のように思えた。残念ながら映画というものは主に視覚と聴覚を使って汲み取るものなので、嗅覚は使いようがないのだが、牧本さんの表情からそれぞれの匂いをイメージすることができた。それは阿部サダヲの演技力があってこそ、伝わるものだと思う。彼の表情から死の匂いや生の匂いを感じることができた。

 そして育てられている豚と加工された豚も登場し、そこにも生と死、命の一生が見えた。ハクチョウという鳥は白で死のイメージ、炭鉱の黒も死のイメージ。それから牧本さんが買ったカメラももちろん黒色だった…。白も黒もありふれた色で、つまり死は冒頭で述べた通り、どこにでも存在する、ありふれた事象ということを意味するのかもしれない。電車のシーンもそこそこ多く、まさにお見送りの象徴だった。

 故人に対してやさしいけれど、性質上、無機質にも見えていた(住んでいる部屋も物が少なく、光も音も最低限のグレーの世界はまるで取調室のようで、唯一の色味は金魚の赤色だった)牧本さんだが、満島ひかり演じる塔子と出会って以来、表情と生活に潤いも見られるようになった。自身の人生はそっちのけで、故人の人生を大切に生きていた牧本さんの人生がやっと動き出すような気配が感じられた。終盤は牧本さんのほのぼの恋バナで終わるんじゃないかと、むしろそれでもいいと思っていたけれど、映画なので、ラストはまさかの展開に…。いや、当然の展開だったかもしれないけれど、とにかく牧本さんは常にいい人、素晴らしい人だ。牧本さんが牧本さんのままでいてくれて良かった。牧本さんが淡々とした一人暮らしの様を披露してくれたおかげで、私もこんな淡々とした一人暮らしに近い暮らしが悪くないと思えるようになった。みじめに思える時もあるけれど、牧本さんもあんな風にがんばって一人暮らし、仕事も一人でがんばっているんだから、私も一人で大丈夫、がんばろうって思えた。牧本さんやオウムのおかげで、「がんばった、がんばった」って自分を労われるようになったかもしれない。

 ほぼ山形ロケということもあり、田んぼや山など自然が見事に美しかった。映像美に感動したし、故郷の田んぼ(宮城)を思い出せた。春先の、田植えしたばかりの頃の水鏡は特に綺麗だった。しんみりした内容のため、派手な展開や面白さには欠けるかもしれないが、静かに物語は遡りながら進み、台詞量もそこまで多くない分、のどかな自然風景に溶け込んでいた。号泣するほど感情が思い切り揺さぶられる作品というわけではなく、牧本さんが静かに丁寧に心を洗ってくれる作品だった。 そして何より、阿部サダヲの演技力あっての映画だったと思う。

 今年は戦争が起きてしまい、たくさんの尊い命が失われてしまったし、イギリスや日本でそれぞれ国葬も執り行われた。死に触れる機会が例年以上に多かったように思う。戦死者や国のために生涯を捧げたような偉人たちは、それなりに厳かに供養してもらえるけれど、孤独死やそれに近い死だと牧本さんみたいな人が見守ってくれない限り、本当にあっけなく骨にされてしまう。命は平等に生と死をもって生まれるけれど、死後の弔われ方は不平等としか思えない。数え切れないほど大勢から追悼される人もいれば、たった一人しか参列者がいない人もいるのだ。でもそのたった一人の参列者が牧本さんのような人なら、どんなに大勢から悼まれるよりも、故人は救われると思うし、安らかに永眠できるだろう。

 昨今は残された方も、思うように供養できないまま、お見送りしなければならない場合もあった。特にコロナ禍の頃はそれが顕著だった。直接見ることも触れることもできないまま、火葬に送り出した遺族には心残りがあるかもしれない。そんな時、牧本さんみたいなおみおくり係の人がいてくれたら、この人に任せれば大丈夫と安心できる気がする。

 いつか私にも思い通りにお見送りできない死があった。それは別にコロナとは関係ないけれど、心にずっと引っかかっている。どんな風な最期だったかも分からない。どこに眠っているのかも分からない。願わくは、牧本さんのように命と死を丁寧に扱ってくれる方にお見送りされたと信じたい。

 物語の要だった蕪木役の宇崎竜童が歌う、エンディングテーマ曲『Over The Rainbow』もじんわり心に沁みた。お墓に入れなかった無縁仏の人たちはきっと、生者は辿り着けない虹のふもとで眠っていて、雨が降り、虹が現れる度に七色の橋を渡って、この世界にひと時だけよみがえる気がする。お墓に入ることのできた故人は、お墓を守ってくれる人がいる限り、その人に思い出してもらえれば、いつでもこの世に戻って来られると私は真剣に考えているのだが、無縁仏の死者は思い出してもらえる機会が少なく、虹がこの世に戻れる合図なのではないかと信じたくなった。
 この曲に関しては、子どもの頃にいくつかのオルゴールを持っており、その中でも二匹の猫のぬいぐるみが入ったカゴ型のオルゴールを思い出した。ネジを回し、曲が流れる度に、ゆっくり猫の首も動く仕組みで、首元が軋む音も含めると、味のあるオルゴールだった。たぶんそれは今もクローゼットの奥にしまってあるダンボールの中で眠っている。そんなこともふと思い出させてもらった柔らかなエンディングだった。

 最後に牧本さん、彼はたしかに主人公であり、孤独死した人たちのヒーローだったが、故人の人生に首を突っ込むことが多かった彼は、彼自身の人生はあまり描かれていなかった。一人でもだらだら気ままに過ごすことはなく、何でも時間通りにきっちりこなし、立派に一人暮らしをしていることや、おみおくり係として熱心に仕事をこなすことはよく分かったけれど、なぜ一人なのか、あんなに孤独で身寄りがいないのかは謎だった。もしかしたら牧本さんは幼少期に親と生き別れか死に別れ、施設で育ったのかもしれない。実は塔子と同じで、蕪木のような親に捨てられた可能性もある。かつて福祉課にお世話になったかも知れず、頭が良いから市の職員になれて、一人暮らししているのかもしれない。死に別れだとすれば、子どもだから親の葬儀にあまり関われなくて、ちゃんと供養できなかったことを悔いていて、だからあんなに必死に知らない故人を供養できるようになったのかもしれない。牧本さん自身の過去の人生もスピンオフで見てみたい。
 と思ったので、牧本さんの少年時代のお話を近々書いてみることにしました。

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